遠江国一宮と二宮は2社ある。
遠江国(静岡県西部地方)の一宮、二宮は、一般的には、
・一宮:式内・小國神社(式内・小国神社の比定社。旧:一宮神社)
・二宮:式内・鹿苑神社
であるが、京都の吉田家(明治に入るまで神社庁的役割を果たした吉田神社の世襲宮司家。吉田兼好、吉田兼見などが有名)が認可したのは、
・一宮:式内・己等乃麻智神社(現:事任八幡宮)
・二宮:式内・大神神社(現:二宮神社)
である。(さらに鎌田神明宮が二宮だと主張している。)
1.一宮:小國神社
「遠江國一宮 小國神社」(静岡県周智郡森町一宮。御祭神は大己貴命の和魂、幸魂)は、社伝によれば、欽明天皇16年(555年)2月18日、本宮山に神霊が示現したので、勅命により社殿(現在は上の写真の「奥磐戸神社(奥宮)」)として、大己貴命荒魂を祀っている)が創建されたことに始まる。
その後、里宮(現在は石碑のみ)が建てられたが、寺社を使って地上に巨大な曼荼羅を描くために、現在地に遷座させられた。
「許当麻知(ことまち)神社」「事任(ことのまま)神社」と称していた時期もあり、境内にはその名残の「事待池」(上の写真)があるが、江戸時代には「一宮神社」と称しており、明治になって『延喜式』にある社名に戻した。
★「遠江國一宮 小國神社」公式サイト
http://www.okunijinja.or.jp/
2.二宮:鹿苑神社(旧:高根明神)
鹿苑神社は、「鹿の干し肉」を献上するため、山の鹿を境内に追い込んだので「鹿苑」という社号がついたという。鹿は神の使い。食べていいのだろうか?(新しいパンフレットでは「鹿の皮」に書き換えられている。)
★参考記事:「【ネタばれ注意】松井優征先生『逃げ上手の若君』あらすじ&感想★第6話「郎党1333」」
https://note.com/sz2020/n/n3e199adddd5a
鎮座地は、秋葉山本宮秋葉神社(有名になったので、もう主張していないが、江戸時代は式内・小国神社だと主張)の近くの杉の神戸島(現・門島)であるが、国司が参拝するのに遠くて大変だが、国衙がある磐田郡の神社なので、行かなければならない。磐田郡から山香郡が分離すると、早速勧請して、国衙(磐田市)の近くに鹿苑(六音)神社を建てた。
旧鎮座地の杉は、8年前の2013年、全国ニュースでの門島(旧・神戸島。「かんど」→「かど」と転訛)の地滑りの実況が記憶にある。残された茶畑で栽培されたお茶は「滑らないお茶」として受験生に人気である。
https://www.bo-sai.co.jp/harunotyojisuberi.html
旧鎮座地には、現在、小国神社がある。
・祭神:大己貴命、素盞雄命、猿田彦命、大山祇命、美知佐根命、品陀別命
・履中天皇4年(403年)10月 創建
・元慶5年(881年)10月 鹿苑神社に分霊
・承平年間(931-938) 「正国六音(小国鹿苑)大菩薩社」と改称
(注1)神社の由緒は時にいい加減で、881年は、元慶3年ではなく、元慶5年である。
(注2)磐田市の鹿苑神社(御祭神・大名牟遅命)には、大名牟遅命の御子神・高日子根命を祀る境内社(摂社)・高根神社があり、古くは高根明神と呼ばれていた。この高根神社に門島の親神・大名牟遅命を祀ったのが鹿苑神社だと思われる。
「国史見在社」(六国史に記載されている神社)に「岐陛保神」がある。私は、「岐陛保神=伎倍保の神」で式内・高根神社か、「岐陛保神=伎倍の保の神」で、式内・高根神社の御祭神「保食神」だと思っているが、秋葉山本宮秋葉神社は、「岐陛の火の神」であって、秋葉山本宮秋葉神社の旧称であり、秋葉三尺坊を祀る前から土着神である火の神・火之迦具土大神を祀っていたと主張している。また、秋葉山本宮秋葉神社では、境内社の小国社を式内・小国神社だとする。御祭神・大己貴命は、秋葉三尺坊に追い出される前は、主祭神として本殿に祀られていたという。
(注1)伎倍保:「保」は、ここでは「複数の行政地区にわたる行政地区」をいい、『萬葉集』に登場する「伎倍人(秦氏)」が支配する浜松平野北部を指す。戦国時代は「井伊保」(井伊領)の1部となった。
(注2)高根神社:式内・多賀神社の比定社。「たかの神」が「たかね神」に転訛したという。御祭神は保食命。静岡県浜松市浜北区尾野。小野氏の本拠地で、高根神社の古墳はNHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』で登場。上の写真の右が高根神社(本殿)で、左が岩本神社である。(日本一小さな式内社かも?)共に巨岩の上にある。巨岩の前に天井絵がある立派な社殿は、高根神社(拝殿)である。
3.一宮:式内・己等乃麻智神社
吉田家が遠江国一宮と認めた神社である。本宮山にある。本宮山、諏訪大社(特に下社春宮)、戸隠山(長野県長野市)は、南北一直線上にある。
清少納言の『枕草子』に「布留の社、龍田の社、花ふちの社、みくりの社、杉の御社、しるしあらんとをかし。ことのままの明神、いとたのもし。さのみ聞きけんとや言われたまはんと思ふぞ、いとをかしき」と紹介され、「言(こと)の侭(まま)に(言った通りに)願いが叶う頼もしい言霊信仰の神社」だと思われているが、『延喜式』には「己等乃麻知(まち)神社」とあり、御祭神は、忌部氏の祖にして、「言葉で結びを司る神」の己等乃麻知媛命であり、本来は「願いを言葉にして出し、後は願いが叶うのを待つ言霊信仰の神社」(麻知=待ち)である。(この言霊信仰の神社に祈願する時は、心の中で願うのではなく、口に出した方がいいと思う。)また、己等乃麻知媛は「真を知る神」でもあり、「真知乃神(まちのかみ)」とも呼ばれた。
研究者によれば、己等乃麻知媛は「ことよさし」の神であり、その役目は、「人々の願いを天に伝えること」ではなく、「天の声を人々に伝えること」だという。(ガッカリである。学問は時として非情である。)
大同2年(807年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命を受けて、本宮山の山麓に里宮を建て、平安後期の八幡信仰の流行に伴い、康平5年(1062年)、源頼義が石清水八幡宮から八幡神を勧請し、「誉田八幡宮」と呼ばるようになった。明治になって『延喜式』の名と組み合わせて「事任八幡宮」と改名しようとしたが認可されず、単に「八幡神社」と称し、第二次大戦後の昭和22年(1947年)に社格が撤廃されて、「事任八幡宮」と名乗ることが出来、平成に入り、「ことのままおこし」(御祭神の八幡三神を相殿に追いやって、主祭神として新たに己等乃麻知媛命を祀ること)を申請し、平成11年(1999年)に認可された。社名も「事任神社 八幡宮」に変えたらいかが?
戦乱を避けるため、己等乃麻知比売命を疎開させようと、三河国の砥鹿神社や遠江国の小国神社に貸し出した結果(その名残が、式内・己等乃麻知神社の神紋であり、砥鹿神社の神紋となった「亀甲に卜」であり、小国神社の「事待池」である)、両社は「願い事が叶う神社」として有名になり、両国の一宮になってしまったという。
そして、恐れていた通り、里宮(鎮座地の住所は「古宮」)は戦火で全焼し、現在地に再建された。御神木は、旧里宮から移植したのか「坂上田村麻呂お手植えの杉」である。
★「事任八幡宮」公式サイト
http://kotonomama.org/
4.二宮:式内・大神神社
吉田家が遠江国ニ宮と認めた神社である。認可されたので、社号を「二宮」に換えた。
松田城が落城すると、城主の居館跡に遷座した。(当時は山頂の旧跡碑の場所にあった。)
行くと石製狛犬のでかさに圧倒される。
御神宝の「遠州七不思議」の飛び神様。大和国から鳥が咥えて来たという多くの勾玉。伝書鳩でもいたのだろうか? 子持ち勾玉を入れる箱の蓋には「大神神社」と書かれている。
吉田家は、由緒書の改竄もしていたが、頼むにはかなりの費用が必要だった。大神神社は金持ちである。というのは・・・大和国の大神神社(奈良県桜井市三輪)の初代祭祀主は、河内国茅渟県陶邑(後の東陶器村)にいた大田田根子である。村名からして三輪氏は須恵器を作らせていたと思われる。
遠江二宮・大神神社(静岡県湖西市新居町中之郷)の神主も須恵器製作を推進し、莫大な利益を得ていたようで、約1000基発見されている湖西古窯跡で焼かれた焼き物は、太平洋岸沿いに東北地方でも発見されている。(この窯業の発展により、浜名湖の北を通っていた東海道は浜名湖の南に移動し、浜名郡衙も中之郷(現在の浜松市北区三ヶ日町)から中之郷(現在の湖西市新居町中之郷)に移されたほどである。)
湖西市産の湖西黄土(湖西土)は、世界に3点しか発見されていない「耀変天目茶碗」(しかも中国では発見されておらず、3点とも日本にある)の再現に向いているようです。(「耀変天目茶碗」の研究で知られる大平陶磁器研究所に、たまたま湖西土の適正試験を依頼して判明した。)
★湖西焼
http://kosai-city.net/kosaiyaki/
他に、式内・島名神社(現在の鎌田神明宮)も「遠江国二宮」だと主張しています。
また、式内・郡辺神社(現在の冨士浅間宮)は「遠江国三宮」だと主張しています。
5.国内各地(荘園、郡、郷、村レベル)の一宮
・笠原荘(御前崎市) 一宮:高松神社
・奥山荘(浜松市天竜区) 一宮:諏訪上下社
・奥山大井郷(浜松市天竜区) 一宮:子安神社
・奥山内鯖練(浜松市天竜区) 一宮:山住神社
・井伊荘(浜松市北区) 一宮:一宮神社(一説に三宅神社)
※湖西市の一宮神社は市宮神社らしい。
※浜松市の二宮神社は御祭神が二宮尊徳だから。
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