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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第12回)の「亀の前事件」は「うわなりうち」か?

 北条政子は、源頼朝の浮気に気づき、浮気相手の亀の前を襲撃した。
 この襲撃事件は、「うわなりうち(後妻打ち)」だという。
 「うわなりうち(嫐打ち、後妻打ち、宇波成打ち)」とは、「男性が、これまでの妻(前妻(こなみ))を離縁して、後妻(うわなり)と結婚する時、前妻が予告した上で後妻の親類女と戦うこと」であり、離縁された憂さ晴らし、ストレス解消の機会である。(「うわなり」について、辞書には「妬み、嫉妬」という語義もある。)

 以上は室町時代の話であり、この頃は、妻(嫡妻)がいる上に、さらに迎えた女性(愛妾など)を「うわなり(上なり)」と言った。つまり、北条政子の「うわなりうち」は、正室が愛妾に「私が正室よ」と示してマウントをとる行為となろう。さて、「亀の前事件」とは、正室・北条政子による愛妾・亀の家の襲撃(愛妾打ち)だというが、実際はどうであったか。

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                  ※歌川広重「往古うはなり打の図」

■『昔々物語』「相応打」
一、百弐、三拾年以前の昔は、女の「相応打」と云ふ事ありし由。女も昔は士の妻、勇気をさしはさむ故ならん。「うはなり打」と云に同じ、たとへば妻を離別して五日、十日、或は、其一月の内、また、新妻を呼び入れたる時、はじめの妻より必ず「相当打」とて相企る。巧者なる親類女と打より談合して、「是は相当打仕りては成るまじ」と談合極ける時、男の分は曽てかまふ事にあらず。
 扨、手寄のたとへば五、三人も有之女に、親類かたより若く達者成女すぐりて借、人数廿人も三十人も五拾人も百人も身代によりて相応にこしらへ、新妻のかたへ使を出す。此の使は、家の家老役の者を遣す。口上は「御覚悟可有之候。相当打何月何日可参候。女持参道具は木刀なりとも棒なりともしないなり」とも道具の名を申遣す。木刀棒にては、大に怪我有之故、大方しない也。

 当時の「うわなり打ち」は、歌川広重「往古うはなり打の図」(昔、行われていた「うわなり打ち」の絵)や享保17年(1732年)の成立という『昔々物語』の120~130年前まで行われていた女性による「相応打(相当打)」の説明からも分かるように、離婚して1ヶ月以内に後妻の家に使者を送り、家老に襲撃日時を告げておき、当日は、それぞれの家の親類女が、箒、擂り粉木、布団叩き、杓文字といった日用品で戦った。相手を倒すというより、家財道具や家(建物)の破壊を狙ったという。男は参加しないし、長刀や太刀はもちろん、木刀も「怪我するから」と使わない。そして、「もう十分でしょう」と、折を見て双方引き上げる、という段取りであった。

 さて、「亀」ではなく、「亀の前」と呼ばれているということは、「愛妾」ではなく、認知された「側室」だったのかもしれないが、側室であれば、堂々と御所に住んでいたはずである。亀の前は、伏見広綱の家に隠れ住んでいた。「うわなり打ち」をしたくても、亀の前には家がないし、宣戦布告する家老もいない。戦う親類女もいない。

 「亀の前事件」は「うわなり打ち」ではない。「亀の前事件」が「うわなり打ち」であったとしても、「北条政子の親類女 vs 亀の前の親類女」という通常の「うわなり打ち」ではなく、「北条政子に頼まれた牧宗親が伏見広綱の屋敷を破壊する」という「男性不参加」というルールを破った襲撃であった。牧宗親は、伏見広綱と領地争いをしていて、「いつかは倒そう」と、大義名分を探していたのであろう。伏見氏は牧氏とは仲が悪く、伊賀氏とは仲が良かった。ただ、将来、伊賀の方と結ばれる北条義時と伊賀氏との現時点での繋がりは不明である。

 『鎌倉殿の13人』では、りくが「うわなりうち」の存在を教え、さらに、「ちょっと壊すだけ」とルールと教えている。とはいえ、北条政子は初めて聞く言葉で、「親族の女性同士の乱闘」というルールを知らなかったとしても、牧宗親は知っていたはずである。

 この「うわなり打ち」のルールを無視した牧宗親の無法行為に怒りを感じた源頼朝は、牧宗親を呼び出し、義父・北条時政(北条政子の父)の義兄だけに、さすがに首は斬らなかったが、髻(もとどり)を切り落として恥ずかしめた。この処分に怒った牧宗親の義弟・北条時政(牧の方の夫)は、故郷・伊豆国北条へ帰ってしまった。

※伏見広綱について
https://note.com/sz2020/n/n8f282a5786af



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