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「築山事件」「信康事件」関連動画集

──なぜ、徳川家康は、正室・築山殿を殺したのか?
──なせ、徳川家康は、嫡男・信康に自害を命じたのか?

 信康事件と築山事件は同時期に起きたが、全く無関係の事件なのか?
 徳川家康が信康に切腹を命じ、それに関連して築山殿が討たれたのか?

 妻や長男が問題を起こした時の処分としては、
・2人ともどこかに幽閉する(「投獄」「監禁、軟禁」「流罪」)。
・2人とも出家させて寺に入れる(妻とは離婚、長男は廃嫡)。
・2人とも死罪にする。
などが考えられるが、「死罪」という最も重い処分をされたということは、最もやってはならないことをやったということであり、それは、
①武田氏に内通
②徳川家康殺害計画
以外には考えられない。②はありえないので、①か?

 この事件について最も信用できるのは太田牛一だというが、太田牛一の記述は、年を経ることに変化している。「逆心」から「狂乱」に変わり、最終的には削除された。

・『前田本安土日記』「去程に、三州岡崎三郎殿、逆心之雑説申候。家康并年寄衆、上様へ対申無勿躰御心持不可然之旨異見候て、八月四日に三郎殿を国端へ追出し申候」
  ↓
・『和学講談所本安土日記』「爰に参州岡崎の三郎殿、不慮に狂乱するに付て、遠州城江の城に押籠、番をすゑ、被置候」
  ↓
・『原本信長記』「爰に三州岡崎の三郎殿、不慮に狂乱候に付、堀江之城に押籠、番を居、被置候」
  ↓
・『安土記』「三州岡崎三郎殿、不慮に狂乱と云、遠州堀江城に番をすゑ、被置候由也」
  ↓
・『信長公記』(記載無し)

 よく「史書は新しい物程よい。最新の研究が反映されているから」というが、この件については古い物ほどよく、「死罪」の理由は「逆心」(武田氏に内通)であろう。





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