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木曽義仲

  木曽殿と背中合わせの寒さかな

 朝日山義仲寺(滋賀県大津市馬場1丁目)には、「朝日将軍」こと木曽義仲のお墓があります。そして、俳聖・松尾芭蕉の墓も。なぜ松尾芭蕉の墓があるかと言うと、
・湖南は風光明媚で、
 「楽浪(さざなみ)の志賀」(『万葉集』)
・湖南には特別熱心な門人が多く、その門人たちが集まりやすく、
 「行春を近江の人と惜しみける」(松尾芭蕉)
・湖南は日本の中央にあり、他国の門人も集まりやすく、
・湖南は京都よりも古い近江京があった。
 「さざなみや志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」(平忠度)
さらに松尾芭蕉は、ここ数年、木曽義仲が大好きで、元禄3~4年(1690~1691)には、しばしば義仲寺境内の「粟津草庵(後の無名庵)」(元禄4年(1691年)創建)に逗留し、
「翁も今はかゝる時ならんと、あとの事をも書き置き、日比とゞこほりある事共、むねはるゝばかり物がたりし、『偖(さて)、から(骸)は木曾塚に送るべし。爰は東西のちまた(巷)、さゞ波(楽浪)きよ(清)き渚なれば、生前の契深かりし所也。懐しき友達のたづ(訪)ねよ(寄)らんも便(たより)わづら(煩)はしからじ』。乙州敬して、『約束はたが(違)はじ』など、う(請)け負ける」(『芭蕉翁行状記』)
と遺言していたからです。

※今泉準一『注解芭蕉翁終焉記ー宝井其角「芭蕉翁終焉記」を読む』
(義仲寺は)生前の契り深い所(幻住菴を出てから、義仲寺内の菴に一時滞在)であり、また友の訪ねる便もよい、と其角の文によれば、「たはぶれ」に語ったのを、乙州は「敬して約束たがはじ」とうけ負った、とあるが、これも半ばはたわぶれであったかも知れない。ところでこれが本当にそうなってしまった。

 さて、「木曽殿と背中合わせの寒さかな」という句は、松尾芭蕉の作ではなく、門人・島崎又玄(ゆうげん)の作です。(松尾芭蕉が伊勢国の又玄の家に泊まった時、貧しいながらも若い奥さんがもてなしてくれたので、松尾芭蕉は、明智光秀の妻の黒髪伝説(明智光秀は貧しかったが、妻が黒髪を切って売ったので連歌会が開けたという故事)を思い出し、後日、「月さびよ明智が妻の話せむ」と詠んで送っています。)

※真蹟懐紙
 その妻ひそかに髪を切りて、会の料に供ふ。明智いみじくあはれがりて、いで君、五十日のうちに輿にものせんと言ひて、やがて言ひけむやうになりぬとぞ。
 月さびよ明智が妻の話せむ 
又玄子妻に参らす。

 松尾芭蕉が詠んだ句は、元禄2年の秋、『奥の細道』の旅で、木曽義仲の城・燧ヶ城(ひうちがじょう)があった燧ヶ山(福井県南条郡南越前町今庄)に月を見ての
「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帖』)
です。

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 さて、木曽義仲については、芥川龍之介『義仲論』を読んでおきたいものです。

「流石に曠世の驕児入道相国が、六十余州の春をして、六波羅の朱門に漲らしめたる、平門の栄華も、定命の外に出づべからず。荘園天下に半して子弟殿上に昇るもの六十余人、平大納言時忠をして、平門にあらずンば人にして人にあらずと、豪語せしめたるは、平氏が空前の成功也。
(中略)
彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也。」(芥川龍之介『木曾義仲論』)

 すごく情熱的な文章なので、若い人にしか書けない文章だとは思うけど・・・18歳・・・私なんて、本といえば教科書と参考書と問題集を指し、『平家物語』は、教科書に引用されている部分しか読んでなかった・・・。 

「平家にあらずんば人にあらず」
出典不明。『平家物語』には、平時忠が「一門にあらざらむ人は、皆、人非人(にんぴにん)なるべし」と言ったとある。「人非人」であり、「人にあらず」とまでは言っていない。18歳の芥川龍之介は「平門にあらずンば人にして人にあらず」と訳している。
・「人非人」の辞書的意味
①人の道にはずれた行いをする人。ひとでなし。
「もとより智徳の両者は人間欠くべからざるものにて、智恵あり道徳の心あらざる者は禽獣にひとしく、これを人非人といふ。」(福沢諭吉『文明教育論』)
②人としての地位を賦与されていない人。
公家が「殿上人(殿上にのぼることを許された人。五位以上の人と六位の蔵人)以外は人ではなく、人の形をした鬼だ」と言うようなこと。
 ちなみに、「驕る平家は久しからず」の出典も不明。『平家物語』には「驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」とある。

★木曽義仲最後の戦いは2000vs60000!
京都から脱出するなら「京都七口」からである。
東:粟田口:義仲四天王・今井兼平軍800←粟津から、源範頼軍35000
西:丹波口:河内国へ義仲四天王・樋口兼光軍500
南:伏見口、鳥羽口:義仲四天王・根井行親500←宇治から源義経軍25000
北:大原口、蔵馬口、鷹峰口
という状況から、西へ向かって平家の残党と手を組むか、北から北陸へ逃げ、さらに木曽へ逃げ込むかしかない。だれもが大原口へ進むと思っていたが、木曽義仲軍200は、粟田口へ! 熱いぜ、義仲!

【参考文献】
・芥川龍之介『木曾義仲論』
 ・東京府立第三中学校学友会誌
 →「芥川龍之介集(全12巻)」岩波書店(第12巻)雑纂『義仲論』
 →「現代日本文学大系43 芥川龍之介集」筑摩書房→青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/000879/files/81_14934.html
・堀竹忠見「「義仲論」(芥川龍之介)試論」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-076_014.pdf
・『歴史街道』(2015年7月号「木曾義仲」特集)
→『WEB歴史街道』「木曾義仲を愛した文豪・芥川龍之介」
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/2369

【参考サイト】
『和樂』「芥川龍之介・松尾芭蕉も惚れた!平安時代の武将・木曾義仲の生涯と美学に迫る」
https://intojapanwaraku.com/culture/55224/

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