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第36回「於愛日記」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 竹千代(後の徳川家康)誕生
天文24年(1555年)3月   竹千代(後の徳川家康)、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日   佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日   岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
天正10年(1582年)6月5日  徳川家康、三河国へ帰還(神君伊賀越え)
天正10年(1582年)6月27日 清洲会議・秀吉、信長の嫡孫・三法師を擁立
                  ・お市の方、柴田勝家と再婚
天正11年(1583年)3月12日 柴田勝家、敗北(「賤ヶ岳の戦い」)
天正11年(1583年)4月24日 柴田勝家、北ノ庄城にてお市と共に自害。
天正12年(1584年)3月~11月 「小牧・長久手の戦い」
天正12年(1584年)12月12日 徳川家康の次男、羽柴秀吉の養子に。
天正13年(1585年)7月11日 秀吉、関白になる。
天正13年(1585年)11月29日 天正地震
天正14年(1586年)5月14日 朝日姫、徳川家康の正室(継室)に。
天正14年(1586年)9月9日   秀吉、正親町天皇から豊臣の姓を賜る。
天正14年(1586年)10月26日 徳川家康、大坂に到着、豊臣秀長邸に宿泊
天正14年(1586年)10月27日 徳川家康、大坂城において秀吉に謁見。
天正14年(1586年)11月5日 徳川家康、正三位に叙される。
天正14年(1586年)11月12日 大政所を秀吉の元へ送り返す。
天正14年(1586年)12月4日 本城を浜松城から駿河国の駿府城へ移す。
天正16年(1588年) 茶々(後の淀殿)、秀吉の側室となる。
天正17年(1589年) 茶々、棄(鶴松)を生み、淀城を賜り「淀殿」に。
天正17年(1589年)5月19日 西郷局(於愛の方)、死没。享年28。
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正19年(1591年)1月22日 豊臣秀長、死没。享年52。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設。
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


★『どうする家康』での設定

・前夫は西郷義勝で、1男1女を儲けたが、西郷義勝は、元亀3年(1572年)10月に討死した。
(史実では、2男1女(西郷勝忠、西郷繁勝、西郷家員正室)を儲けたが、西郷義勝は、元亀2年(1571年)3月4日の「竹広表の戦い」(国道151号線と連吾川が交差する場所付近に現地案内板あり)で討死した。墓は西郷谷にある。)

元亀二年春、竹広に攻め出で、定盈、設楽、西郷、馳せ向ふ。之に依り、秋山。引き退く。(元亀2年の春、武田軍秋山隊が設楽原南端の竹広に攻め込んで来たが、「豊川三人衆」(野田の菅沼定盈、設楽貞通、西郷義勝)が来たので、秋山虎繁は退却した。)

『菅沼家譜』

・前夫の事を思い続け、徳川家康を尊敬するも愛してはいなかった。ただ、築山殿が母親に言われたように、西郷局は、西郡局に言われて笑い続けた。
(史実では、相思相愛で、正室説もある。『どうする家康』では、前夫の死後、自害しようとしたが、子供の姿を見て思いとどまったとした。この時代、夫に死なれたら剃髪して夫の菩提を弔うのが常であり、剃髪しないのは、「まだ若いので再婚の意志あり」という意思表示であった。)

・目の見えない坊主(按摩?)たちに米と着物を与えていた。
(史実では瞽女(ごぜ)に与えていた。西郷局の葬儀には、ナレーションのように「多くの民」ではなく、「多くの瞽女」が集まったという。)

・胸の病で死亡。
(史実は不明。若死になので、毒殺説もある。)

眼病の私には、今回の話は響いた。合掌。

「幸せになることは、生き残った者の務めである」(徳川家康)

視覚障害になってまでも生き残ってしまった私は、幸せになれるのだろうか?

「人の生きる道とは、辛く苦しい茨の道。そんな中で、慕い、慕われる者があることが、どれほど幸せなことか。それを得たのなら、大事にするべきと思うまで」(西郷局)

家族のいない私には、親友やフォロワーさんたちのスキが唯一の心の支えである。これからも大切にしよう。そうすれば、道が開けるかもしれない。

 西郷局は、2代将軍の母であるのに、謎が多い。
 西郷氏との話は全て創作で、前夫はおらず、初婚であろう。
 と書くと、今回の話を否定することになってしまうが。


https://news.goo.ne.jp/article/sponichi/entertainment/sponichi-spngoo-20230924-0294.html

茶々は永禄12年(1569年)生まれなので、天正17年(1589年)には21歳。

★今後の『どうする家康』

・第37回「さらば三河家臣団」(10/1)
・大河ドラマガイド「どうする家康 完結編」発行(10/5)
・第38回「」(10/8)
・第39回「」(10/15)
・第40回「」(10/22)
・第41回「」(10/29)
・第42回「」(11/5)
・第43回「」(11/12)
・第44回「」(11/19)
・第45回「」(11/26)
・第46回「」(12/3)
・第47回「」(12/10)
・第48回(最終回)「」(12/17)


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