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Reco語り ー『大奥』(第1話)ー


【重要人物】


               
〔フジ『大奥』〕/〔NHK『べらぼう』〕
・徳川家治           亀梨和也
・正室(御台所)・倫子女王   小芝風花
・側室①:お知保(お千穂)   森川葵
・側室②:お品         西野七瀬
・松島局(大奥総取締)     栗山千明
・岩瀬
・田沼意次           安田顕      渡辺謙
・田沼意知                    宮沢氷魚
・松平定信           宮舘涼太
・鱗形屋孫兵衛                  片岡愛之助
・蔦屋重三郎                   横浜流星
・喜多川歌麿                   染谷将太
・写楽

 第10代将軍・徳川家治は、側室を拒否した将軍として知られ、大奥とは最も縁の無い将軍だと言えます。その将軍の時代を描くとは、無謀か???

 徳川家治が側室を拒否した理由は、正室が公家・五十宮倫子(閑院宮直仁親王第六王女・倫子女王。幼名が五十宮)だったので、朝廷に忖度しての事かと思いきや、実は「ラブラブだったから」と伝わっています。フジテレビによれば、今回の『大奥』は、「“愛”をテーマにした『大奥』史上、最も切なくて美しいラブストーリー」だそうです。

──「愛」とは何ぞや?

【解説と感想】

1.マリッジブルー

 公家・閑院宮直仁親王の姫である第六王女・五十宮倫子(小芝風花さん26歳)は、次期将軍・徳川家治(KAT-TUN のメンバー・亀梨和也さん37歳)との婚儀を控え、付き人のお品(乃木坂46の元メンバー・西野七瀬さん29歳)と支度に追われていました。
 五十宮倫子は、幼い頃に一度だけ徳川家治と会ったことがあり、その時の「蛇の如き冷たい目」が印象に残っており、婚儀に気乗りしないようです。(第一印象って大事ですね!)

 蛇にはまぶたが無いので、目は真ん丸です。人間で言えば団栗眼であり、冷たくは感じません。蛇ににらまれた蛙のように「吸い込まれて動けなくなる目」です。たとえば、徳川家康の目とか、徳川家康の祖父の松平清康の目とか。
 「冷たい目」は、まぶたがあるトカゲの目かと。(トカゲによく似たヤモリには、蛇同様、まぶたがありません。)

 そもそも「冷たい目」という言葉は、相手に対して無関心や冷淡な態度を示す目つきのことを指します。科学的には瞳の大きさかと。人は興味ある対象を見る時、通常の「死んだ目」から黒目が大きくなり、目が輝きます。それで、営業部の人は、お客に興味があることを示し、説得力をアップさせるために、黒のカラコンをつけます。(ただ、選び方を間違えると「宇宙人の目」になります。また、九州に多い茶色い目の人は、優しく見え、初対面の人とも親しく出来るので、芸能人はブラウンのカラコンをつけるようです。)

※日本人の肌の色(パーソナルカラー)には、イエベとブルべがある。イエベ(弥生人系)の人は眼も髪も茶色っぽく、ブルべ(縄文人系)の人は眼も髪も黒いという。

 私の徳川家治に対する感想は、「冷たい」というよりも、「本心を見せない」です。父・徳川家重の突然死と将軍職就任、そして結婚と、大きな変化が続いたので、それらに重臣がどう対応するか、自分の味方は誰かと、様子を静かに見ているかのように見えました。

2.婚儀

 さて、婚儀の準備が整うと、徳川家治の乳母・松島局(栗山千明さん39歳)に導かれ、五十宮倫子たちは婚儀の間へ。
 ドラマでは、幼い五十宮倫子(安齋吏都ちゃん11歳)が京都から江戸へ向かうシーンがワンカットあるのみで、婚儀の前日に浜御殿(江戸城?)で、久我信道(鈴木仁さん24歳)に会うシーンまで飛びました。(五十宮倫子は、江戸へ来て5年後に結婚しています。なぜ結婚まで5年間もかかったのかは不明です。)

寛延元年(1748年)10月26日 11歳。徳川家治(12歳)との結婚が決定。
寛延  2年(1749年)  2月  5日 12歳。京都を出発。
寛延  2年(1749年)  3月19日  江戸へ到着し、浜御殿へ入る。
宝暦  3年(1753年)11月11日  16歳。縁組の披露。称「姫宮様」。
宝暦  4年(1754年)12月  1日  17歳。結婚。江戸城へ。称「御簾中様」。
宝暦10年(1760年) 4月      23歳。江戸城本丸へ。称「御台所様」。

 12月朔日、西城にて大婚、行はる。辰の刻、五十宮の御方には、本城の広敷より西城の後閤に入らせ給ふ。堀田相模守正亮、少老・板倉佐渡守勝清は、跡よりまかりて、其の事、司る。宿老、少老、又は、この式にあづかる輩、皆、かち色の熨斗目麻の上下着て、佩刀の柄は萌黄の糸を用ふ。けふ出仕せし溜詰普第の衆、雁間詰、奏者番、菊の間縁詰各父子、布衣以上、皆、宿老に謁して祝ひ申す。本城にも同じ。又、「五十宮の御方、けふよりして『簾中御方』と称し奉るべし」と仰せ出さる。

『徳川実紀』「浚明院殿御実紀」
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917891/1/340

 江戸城の西ノ丸で婚儀が行われている時、新郎・徳川家治の父である第9代将軍・徳川家重(高橋克典さん59歳)は、息子・徳川家治の婚儀に顔を出すこともなく、女中を侍らせ遊んでいました。荒れる徳川家重を、田沼意次(安田顕さん50歳)が、徳川家重の大好きな鰻料理を差し出して、
「新しい献立につき、家重様の『重』を賜り、『うな重』と名付けた次第で御座います」
と言ってその場を収めました。
「どうしてこのような方が天下人なのでしょうか?」
と聞かれた田沼意次は、
「悪人には、いずれ天罰が下る。世の定めとは、そういうものだ」
と口にしました。この田沼意次は、後に大出世し、「田沼時代」を築きます。

宝暦  4年(1754年)12月 1日 徳川家治18歳。結婚。
宝暦10年(1760年) 5月13日 徳川家治24歳。父・徳川家重50歳、隠居。
宝暦10年(1760年) 9月  2日 徳川家治24歳。第10代将軍に就任。
宝暦11年(1761年) 6月12日 徳川家治25歳。父・徳川家重51歳、死去。
明和  4年(1767年) 田村意次、御側御用取次から御側用人へ出世。
明和  6年(1769年) 田村意次、侍従にあがり老中格となる。
安永元年(1772年) 田村意次、相良藩主になる。(老中と兼任)

 徳川家治と五十宮倫子の婚儀には、田安宗武(陣内孝則65歳)、松平定信(Snow Manのメンバー・宮舘涼太さん30歳)親子が出席しました。2人の挨拶後、徳川家重は無言でその場を去りました。

 「暴れん坊将軍」⑧徳川吉宗┳長男・⑨徳川家重┳⑩徳川家治
              ┃        ┗徳川重好【清水家】
              ┣次男・徳川宗武【田安家】━松平定信
              ┣三男・源三
              ┗四男・徳川宗尹【一橋家】━徳川治済

※田安宗武(徳川 宗武):第8代将軍・徳川吉宗の次男。徳川賢丸(松平定信)の実父。「御三卿」(田安家、一橋家、清水家)の1つである田安家初代当主。
※松平定信(徳川賢丸):田安宗武の七男で、徳川吉宗の孫・徳川賢丸。久松松平家に養子に出され、定綱系久松松平家の第9代当主となる。老中であった1787年から1793年まで「寛政の改革」を行った。

 婚儀の後、松平定信が現れ、五十宮倫子に、
「どうかお気を付け下さい。 大奥は、人を人とも思わぬ者たちで溢れております。 誰もが倫子様の地位を妬み、追い落とそうとなさるでしょう。 気を抜けば、殺されるやもしれません」
と恐ろしい忠告をしました。それを松島局が盗み聞きしていました。

3.徳川家重の突然死と徳川家治の将軍就任

宝暦10年(1760年) 5月13日 徳川家治24歳。父・徳川家重50歳、隠居。
宝暦10年(1760年) 9月  2日 徳川家治24歳。第10代将軍に就任。
宝暦11年(1761年) 6月12日 徳川家治25歳。父・徳川家重51歳、死去。

田沼意次が、
「悪人には、いずれ天罰が下る。それが世の定めというものだ」
と口にしていた徳川家重が亡くなりました。医者の見立ては、
「恐らく男女の契り中に心の臓の発作を起こしたようでございます」
でしたが、
──毒殺のようです。
 殺したのは誰でしょう?

 さて、ドラマでは、徳川家治は、田沼意次に弱みを握られて重用したとしていますが、そもそも田沼意次の重用は、父・徳川家重の遺言でした。ということで、田沼意次が徳川家重を毒殺するはずはありません。(田沼意次にとっては、暗君・徳川家重の方が、賢い徳川家治よりも利用しやすいはずです。ドラマでは、徳川家治の弱みを握っているので、利用できるようですが。)
 徳川家重の死因は、病死です。頻尿で「小便公方」と呼ばれていたことから、死因は尿路障害とも、言語障害があったことから、死因は脳性麻痺とも考えられていますが、ドラマでは「死因 流行病」と処理。(流行病=伝染病なら周囲の人も死ぬはずですが。)

「こうして、9代将軍家重公がこの世を去られ、御嫡男である家治様が第10代征夷大将軍に御就任遊ばされたのでした。この日を境に、大奥は、嫉妬と欲望の渦巻く動乱の世界へと突入。姫様は否応無しに巻き込まれて行くのでした」(ナレーションは浅野ゆう子さん)
以上で30分。ここで終了でもいいのですが、今回は初回ということで75分間です。まだまだ続きます。

4.松島局による五十宮倫子いじめの始まり


 松島局が、お知保(森川葵さん28歳)に言う。
「公家の正室など邪魔になるだけよ。生きる気力も失せる程に、可愛がって差し上げよ。首尾よく運べば、そなたを側室に推挙しよう」
 そもそも将軍が公家の娘と結婚するのは、朝廷と良好な関係を保ちたいという政略なのでしょうから、公家の娘にいじわるして、朝廷との仲を悪くするのは、江戸幕府の方針とは異なると思いますが・・・。

 松島局は、「御台所」(将軍の正室)になった五十宮倫子の付人として、中臈・お知保をつけると言いだし、「京風の嫁入り道具も武家の家風にそぐいません」と言い、調度品を取り替えてしまいました。
 なぜ年寄の松島局にそんな権限があるかといえば、松島局のライバル・高岳(たかおか。田中道子さん34歳)を差し置いて「大奥総取締」に就任していたからでした。
「どういうことです? 聞いておりませぬぞ」(高岳)
「上様より直々に御拝命いただきました」(松島局)
さらに徳川家治は、将棋をしながら、田沼意次を老中に任命した。

5.徳川家治との対面

 将軍になった徳川家治が初めて大奥へ来る日、「側室にしてもらおう」と、皆、着飾りました。(夜伽役は、扇子で肩を叩かれるそうです。)
 お知保は、五十宮倫子に早く着替えるよう促しました。そして、侍女・お品が着替えのための道具を探しに行くと、捕らえられ、口枷をされ、手足を縛られて倉庫に監禁されてしました。五十宮倫子は、お知保が用意した粗末な着物を着て、徳川家治に会いに行きました。
 徳川家治が大奥にきて、豪華に着飾った娘たちの肩を扇子で叩いて行きました。
──一度に4人もの女性の相手が出来るのか?
とびっくりしましたが、徳川家治は、祖父・徳川吉宗の「質素、倹約」に賛同しており、「無駄に高価な恰好、目障りだ」と、その女性たちに家に帰るよう申し渡しました。そして、五十宮倫子の前に立つと、
「倹約と無様(ぶざま)は異なる。この格好見るに耐えぬ」
と言いました。御台所ともあろう者が、自分の妻が、女房たちより粗末な着物を着ていたのが耐えられなかったのでしょう。

6.久我信道に助けを求める。


 五十宮倫子が、「お品が見当たらない」と訴えても、「京都に戻られたのでは?」と言われる始末。五十宮倫子は、大奥から逃げ出そうと思い、幼馴染みの久我信道に救援要請の手紙を書きますが、お知保に奪われてしました。
 その夜、徳川家重がお渡りになるが、
「そなたのような色気のない女子は抱く気にならぬ」
と寝てしまった。五十宮倫子が久我信道を慕っているので、不憫に思ったのであろう。

「長局の東側で不気味な物音や、女子の泣き声が聞こえてくるとか」
※長局(ながつぼね):長い1棟の中をいくつもの局(女房の部屋)に仕切った女房たちの住まい。
という怪談話を聞いた五十宮倫子は、「お品に違いない」と察し、監禁されていたお品を助け出しました。

 五十宮倫子は、大奥から逃げ出そうと思い、幼馴染みの久我信道に救援要請の手紙を書きますが、奪われてしまいました。そこで、一計を講じ、詠んだ和歌を短冊に書いて送るふりをして、お品が、門番の猿吉(『光る君へ』の藤原道長の従者・百舌彦こと本多力さん44歳)に直接発送を頼みました。
 作戦は成功! 久我信道から返事が来ますが、お知保に奪われ、徳川家治に渡されてしまいます。手紙を読んだ徳川家治は、手紙を読めないよう、細かく割いてしまいました。多分、大奥から逃げ出す作戦が書かれていたのでしょう。
 お品がジグソーパズルのように復元し、手紙を読むと、そこには、久我信道が、五十宮倫子の1つ上の姉・幾宮高覚と結婚したことが書かれていました。(徳川家治は、手紙を読んで五十宮倫子が悲しまないよう、手紙を破ったのでした。ツンデレ感がヤバいです)
ナレーション「姫様の居場所は、もうこの城の外にもないのでした」

田沼意次が老中首座になったところで、第1話終了。

【小ネタ集】

■徳川家の正室

当時の将軍は、公家の娘を正室としていました。
・第  8代将軍・徳川吉宗の正室=伏見宮貞致親王の王女・理子女王
・第  9代将軍・徳川家重の正室=伏見宮邦永親王の王女・増子女王
・第10代将軍・徳川家治の正室=閑院宮直仁親王の王女・倫子女王

 閑院宮直仁親王の第六王女・倫子女王(五十宮)にとって、姉の第五王女・高覚女王(幾宮)も、徳川家治も一つ年上でした。

■徳川家重とうな重

 ドラマでは、徳川家重は重箱に入れた鰻料理が好きだったので、「うな重」と名付けたとしましたが、実は逆で、「うな重」が好きだったので、「家重」という名にしたと伝わっています。また、「自分は病気持ちで、徳川家にとっては重い荷物である」として、「家重」と名乗ったとする説もあります。どちらも俗説ですけどね。

※「うな重」の名の由来:元々、「ご飯の上に鰻の蒲焼を乗せて、その上に更にご飯と鰻の蒲焼を乗せる」という作り方をしました。ご飯と鰻を重ねることから「うな重」と呼ばれる様になったのです。

■徳川家治の将棋の腕前

 徳川家治が将棋をさしているシーン、「金将」「王将」の駒を持つシーンもありました。
 徳川家治の腕前は、七段(新発見の史料では八段)と言われていますが、残された棋譜からは「現代であればハイアマクラス」と評価されています。ただし、「詰将棋を作成する才能は優れれている」と評価されています。

※詰将棋百番『御撰象棊攷格

御晩年に至りて閑暇の御遊戯には常に象棋をなされけり。その業の者にては、伊藤宗印宗鑑、大橋印寿を召して対手とせらる。御穎敏にましましけるゆゑ、程無く奥儀を極め尽くし給ふ。後には詰物といふ書をさへ著し給へり。詰物といへるは、老成堪能に至らざれは著しがたきを、わづか一、 二年の間にゑらみ給ひしかば、その職の者共々、おそれ奉れりとぞ。其の著なりて名をは成島忠八郎和鼎に命ぜられしかば、象棋攷格として奉り、今も御文庫に現存せり。

『徳川実紀』「浚明院殿御実紀」(付録三)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917898/1/418

■百姓一揆

 ドラマでは信濃国の一揆「上田騒動」(宝暦11年(1761年)に信濃国上田藩で発生した農民一揆。「上田藩宝暦騒動」とも)が紹介されました。将棋をさしながらの政治談議。ドラマでは、この一揆を契機に、政策を重農主義から重商主義に変えたとしています。

田沼意次「恐れながら、民が一揆を起こすのは不満が溜まっているからです。その不満を取り除かない限り、根本的な解決には至らないと存じます」
徳川家重「ならば、どうする?」
田沼意次「不作続きで、貧しい者共から年貢を取り立てること自体、限界がござる。そこで、これからは、商人からも税を取り立てる仕組みを整えるべきです。銭を持つ者こそが天下を治める時代となるでしょう。それ故、幕府は、商人から銭を徴収するべきかと」
徳川家重「分かった。好きにやってみよ」

 史実の田沼意次はといえば、宝暦8年(1758年)に起きた美濃国郡上藩の百姓一揆「郡上一揆」に関する裁判にあたらせるために、御側御用取次から1万石の大名に取り立てられています。

■大奥の経費削減

 徳川家治が将軍になって初めて大奥に行った日、みんな着飾って扇子で肩を叩かれることを望みました。華美な女性の方が肩を叩かれました。
──徳川家治は、派手な子が好き?
いや、そうではありませんでした。農民が一揆を起こす世です。徳川家治は、質素、倹約を求め、派手好きな子を家に帰したのです。
 徳川家治は「暴れん坊将軍」こと祖父・徳川吉宗に帝王学を学びました。そしてこれは、その徳川吉宗の真似です。ある時、徳川吉宗は、大奥の女房の美人リストを作らせました。女房たちは「この中から側室が選ばれるのだろう」と騒ぎましたが、徳川吉宗は、リストに載せられた美人たちに対し、「その方たちは美人だから結婚相手はすぐに見つかるだろう」と言って、家に帰しました。こうして徳川吉宗は、当時4000人いた大奥を1300人まで減員させました。(徳川家治は、大奥の経費を。徳川吉宗の頃よりさらに3割削減しました。)しかし、幕府だけでなく、庶民にまで倹約を強い、年貢を五公五民にする重農政策(増税政策)により、農民の生活は窮乏し、百姓一揆が頻発し、経済や文化は停滞しました。その反発と、田沼意次の重商政策により、経済は活発化し、文化も花開きました。それが2025年NHK大河ドラマ『べらぼう』の時代です。

■田沼意次

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