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五十宮倫子
東山天皇┳中御門天皇
┗閑院宮直仁親王
┣第五王女・高覚女王(幼名・幾宮) 1737-1764
┣第六王女・倫子女王(幼名・五十宮)1738-1771
伊藤讃岐(閑院宮家女房。伊藤一中の娘)
五十宮(いそのみや):幼名
倫子女王(ともこじょおう):諱
姫宮様:将軍の婚約者である公家の娘の呼称
御簾中様:将軍の正室の敬称
御台所様:将軍の正室の呼称
心観院殿:戒名
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葵艸松の裏苑 第十帙
家治公
御台所
閑院宮直仁親王姫君五十宮(此偉倫子)寛延2己巳年3月15日の下向ありて本城へ御入輿。宝暦2壬申年4月4日、浜御庭へ御入。同3癸酉年11月11日、御縁組御弘め、同10甲戌年11月朔日、西丸へ御入輿、御婚礼。それより御台所と称すべきの旨を達せらる。同9月2日、従三位に叙し、明和8年辛卯年8月20日、薨ず。同9月10日、東叡山へ御葬送、心観院殿と称す。同23日、贈従二位。天明3年、従一位を贈らる。
閑院宮直仁親王の第六王女・五十宮(彼女の諱は「倫子」)は、寛延2年(1749年)3月15日、京都から江戸へ下向して、江戸城の本丸へ入られた。宝暦2年(1752年)4月4日、浜御殿へ入られた。宝暦3年(1753年)11月11日、縁組を披露し、宝暦10年(1760年)11月1日、江戸城西ノ丸へ入られて、結婚。「これ以後、『御台所』とお呼びするように」という通達があった。宝暦10年(1760年)9月2日に従三位に叙され、明和8年(1771年)8月20日に亡くなられた。明和8年(1771年)9月10日に東叡山寛永寺に埋葬され、「心観院殿」と称した。明和8年(1771年)9月23日には従二位が、天明3年(1783年)には従一位が追贈された。
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