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Recoの君語り ー『光る君へ』(第31回)「月の下で」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)


【前半】
第一部「青春篇」

康保  3年(966年)     藤原道長、生まれる。
天禄元年(970年)?    紫式部、生まれる。
寛和  2年(986年)6月23日 「寛和の変」(花山天皇の退位と出家)
               一条天皇(7歳)即位。
寛和  2年(986年)      「庚申待ちの夜」
第二部「関白争奪篇」
永祚  2年(990年)  7月  2日 藤原兼家、死去。
正暦  4年(993年)  7月29日 源倫子の父・源雅信、死去。享年74。
長徳元年(995年)  4月10日 藤原道隆、病没。享年43。
長徳元年(995年)  5月  8日 「七日関白」藤原道兼、病没。享年35。
長徳元年(995年)  6月19日 藤原道長、右大臣に転任し藤原氏長者宣下。
長徳元年(995年)  8月下旬 朱仁聡、林庭幹ら70余人が若狭国に来航。
長徳  2年(996年) 1月28日 藤原為時、越前守に就任。
長徳  2年(996年)夏    「月夜の逢瀬」
第三部「越前篇」
長徳  2年(996年)夏     藤原為時&紫式部、越前国へ。
長徳  2年(996年) 10月   高階貴子、死没。
長徳  2年(996年) 12月16日 藤原定子、脩子内親王を出産。
長徳  3年(997年)      紫式部、帰京。
第四部「結婚生活篇?」
長徳  4年(998年)  8月27日     藤原宣孝、山城守に就任。(『権記』)
長徳  4年(998年) 晩秋(ドラマでは9/30?)紫式部、藤原宣孝と結婚。
長徳  5年(999年)  1月13日  「長保」に改元。
長保元年(999年)  2月  9日  藤原彰子、裳着の儀(『御堂関白記』)
長保元年(999年)  2月   「石山寺の夜」
長保元年(999年)  2月末日頃  『枕草子』「二月のつごもりごろに」
長保元年(999年)  11月  1日 藤原彰子、入内。
長保元年(999年)  11月  7日 藤原定子、敦康親王を出産。
               藤原彰子に女御宣旨(「本宮の儀」)。
長保元年(999年)  12月   紫式部,、藤原賢子(大貳三位)を出産。
長保  2年(1000年)  5月5日 『枕草子』「三条の宮におはしますころ」
長保  2年(1000年)12月15日 藤原定子、媄子内親王を出産。
長保  2年(1000年)12月16日 藤原定子、死没。享年25。
長保  3年(1001年)  4月25日 藤原宣孝、病没。享年不明。
長保  3年(1002年)閏12月22日 藤原詮子、死没。享年40。
【後半】
第五部「『源氏物語』篇?」

長保  6年(1004年)  7月20日 「寛弘」に改元。
寛弘元年(1004年) 『源氏物語』の執筆開始。
・・・・・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・
寛弘  2年(1005年)  9月26日 安倍晴明、死没。享年85。
寛弘  5年(1008年)  2月  8日 花山法皇、崩御。享年41。
寛弘  5年(1008年)  『源氏物語』、「源氏物語絵巻」として絵画化
寛弘  7年(1010年)  1月28日 藤原伊周、死没。享年37。
寛弘  8年(1011年)  2月  1日 藤原為時、越後守に就任。
寛弘  8年(1011年)        藤原惟規、越後国で死没。享年38?
寛弘  8年(1011年)  6月22日 一条天皇、崩御。享年32。
寛弘  9年(1012年)12月25日 「長和」に改元。
長和  3年(1014年)  6月17日 藤原為時、任期を残して越後守を辞任。
長和  5年(1016年)  4月29日 藤原為時、三井寺で出家。
第六部「終活篇?」
長和  6年(1017年)  4月23日 「寛仁」に改元。
寛仁  2年(1018年) 10月16日 藤原道長の3女・藤原威子が立后。
                 藤原道長、「この世をば…」と詠む。
寛仁  5年(1019年)  2月  2日 辛亥革命により「治安」に改元。
治安  4年(1024年)  7月13日 「万寿」に改元。
万寿  2年(1025年)?    清少納言、死没。享年61?
万寿  4年(1027年)12月  4日 藤原道長、病没。享年62。
万寿  5年(1028年)  7月25日 「長元」に改元。
長元  2年(1029年)? 藤原為時、死没。享年81?
長元  4年(1031年)? 紫式部、死没。享年62?
永承元年(1046年)1月18日 藤原実資、死没。享年90。
永保  2年(1082年)? 藤原賢子、死没。享年84?

<紫式部の墓&供養塔> ※和泉式部の墓に比べたら数が少ない。
・京都府京都市北区紫野西御所田町:小野篁の墓の横
・滋賀県大津市石山寺:石山寺の供養塔
・兵庫県神戸市北区山田町藍那の線路脇
・栃木県下野市紫
・千葉県南房総市
・千葉県館山市那古


■物語が生まれる時


「ナミビア・ボツワナのジュホアン族に関する研究によると、物語が生まれる時、それは夜のたき火の明かりには人々の想像力をかきたてる効果があり、また、たき火があることで夜の活動時間が延び、自給自足の生活を営むための時間以外の社会的な営む時間が確保されるため、物語を話しやすくなる」ことが分かったそうです。

 一方、現存する日本最古の長編小説『源氏物語』は、紫式部が石山寺で月を見て着想を得、「紫式部源氏の間」に篭って書いたと伝えられています。

今を去る約千年の昔 寛弘元年八月十五夜 紫式部この部屋に参籠し前方の金勝山よりさし昇る中秋の名月が下の湖面に映える美しい景色に打たれ構想の赴くままに筆を採られたのが有名な『源氏物語』であります それから此の部屋を『紫式部源氏の間』と申すようになった

石山寺「紫式部源氏の間」案内板

「月を見て物語を生む」という発想は、西洋人にはありえませんね。
 英語のlunatic(ラテン語で「月」を意味するlunaに由来)は「狂人」と訳します。これは「月の霊気が人間に流入して狂気におもむかせる」という西洋の伝統的な観念にもとづいています。満月の光を浴びると、狼男になってしまう人もいるかもしれませんね(笑)。西洋では、月は見るものではなく、避けるものです。

──では、日本人は、なぜ月を見上げるのか、鑑賞するのか?

 実に哲学的な問いですね。

「同じ空の下」という言い回しがあります。
「離れて暮らしても、同じ空の下、生きていれば、いつかは会える」等。
かと言って「君と同じ日の光を浴びている」とは言わないし、
太陽をじっと目視することもありません。
時に手を額に当てて「暑い」と見上げますが、
太陽は神であり、見るものではなく、見られるものです。
「天網恢恢疎にして漏らさず、いつもお天道様が見ている」

月はじっと見るもの、鑑賞するものです。
そして思います。
「あの人も見ているかしら」と。

 西洋の星座の本を見ていると、「この星と、この星を線で繋いでA座」とありますが、私にはAに見えないのと同様に、西洋人には、なぜ月に餅をつく兎がいるのか理解できないでしょう。(「そもそも兎は餅をつかない」と言うでしょう。『鳥獣戯画』にしても、擬人化大国日本の為せる業です。)

月岡芳年『月百姿』「石山月」

第十二帖『須磨』に、〝今宵は十五夜なりけりと思い出でて、殿上の御遊び恋しく――〟の一節があります。青年貴族が都から遠く離れた須磨で月を眺め、かつての暮らしを恋しく思うシーンは、紫式部が石山寺に参籠した際に構想し、そこから物語を書き始めたと伝えられています。石山寺は、月見の美しさでも知られており、紫式部も湖面に映る十五夜の月を眺めているうち、物語の情景がふと脳裏に浮かんだのかもしれません。

石山寺広報担当・田中眞一

 紫式部が寺で『源氏物語』を書き始めたと聞いて、
──これは現実逃避だ。
と思いました。
──執筆動機は夫との死別だ。
とも思いました。
 でも、執筆の動機が夫の死であれば、架空の物語ではなく、夫との楽しい日々を『紫式部日記』として書き残すのではないかとも思いました。

『源氏物語』誕生の回は、この仕事を受けた時から予想していた通り、とてもむずかしく、今年のはじめに1カ月以上抱え込んで悩んでいたのを思い出します。私も演出も役者も精一杯やりました。

大石 静
http://blog.5012.jp/ohishi/archives/2024/08/post_711.html

演出家さんの努力は伝わりました。
しかし、私には、地震でいろんな色の紙や巻物が棚から次々にバサバサと落ちてくるようにしか見えませんでした。数が多いし、速度も速くて優美ではなかったです。(スロー再生でよかったです。)
私が監督であれば、演出家に次のように指示します。
「物語を書いた白い紙を、間隔をあけてヒラヒラと降らせてください。また、これは現実ではなく、脳内イメージですから、女優には目を閉じさせて下さい」
と。

私が演出家であれば、
「歩いていた紫式部が立ち止まり、眼を閉じると、突然、背景が真っ白になり、『昔男ありけり』『今は昔』『春は曙』といった冒頭の1行の文字が次々と浮かんでは消える。そして、『いづれの御時にか』という文字が浮かぶと、紫式部はかっと目を大きく開き、その瞬間、背景が元の風景に戻る」
とします。どうでしょうか?

天才と呼ばれた作詞者が、
「最初の1行がなかなか思い浮かばない。思い浮かべば、あとはサラサラと書ける」
と言われたことを聞き、「これが天才という存在か」と感じたこと思い出しました。

♪言ノ葉は、月の雫の恋文(しらべ)

ものがたりを かこう! 
なにかを うみだすのは、かんたんな ことでは なくて、
ときに なげだしたくなるれど、あきらめないで、
もういちど えんぴつを にぎる。
せかいで たったひとつの 「きみだけの ものがたり」をかくために。

https://www.hyoronsha.co.jp/search/9784566080881/

   人間とは?

   私とは?

   私にしか書けない物語とは?

 紫式部は、天皇という雲の上の存在が、庶民同様、悩み、苦しんでいることを知り、カササギに語らせることも、清少納言のように光の部分だけを描くともやめ、「生々しい人間を書こう。天皇に『人間は誰もが悩み、苦しみながら生きている。あなただけではない』と示せば、物語を読んでる時だけでも悩みや苦しみを忘れさせてあげられるかもしれない」と思い、『源氏物語』を書き始めたって理解でOK?

■『源氏物語』の誕生

いづれの御時にか、女御、更衣 あまた候ひ給ひ ける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めき給ふありけり。 はじめより「我は」と 思ひ上がり給へる御 方々 、めざましきものにおとしめ 嫉み給ふ。
(いづれの御時にか、女御、更衣があまたお仕えしている中に、それほど高い身分ではありませんが、格別に帝のご寵愛を受けて、栄える方がおりました。宮仕えのはじめから「我こそは」と思い上がっていた方々は、その方を目障りな者として蔑み、憎んでいたのです。)

『源氏物語』

 ドラマでは、寛弘元年(1004年)、自宅で「桐壺」から書き始めたとしましたが、「帚木」から書き始められたとする学説もあります。
 石山寺では、中宮・藤原彰子から執筆を依頼され、寛弘元年(1004年)8月15日、石山寺で仲秋の名月を見て、「須磨」「明石」を書いたのが始まりだとしています。

■感想

①人は親子関係を本能的に感じ取れるといいます。藤原道長と藤原賢子の初対面のシーン──藤原道長は「まさか・・・」と思い、藤原賢子は「父上~」と駆け寄るのではないかとドキドキしました。
②「『枕草子』を超える物語を書け」と言われたら、私なら「『枕草子』は全3巻。私なら倍の6巻書けますよ」と答えます(笑)。
 それにしても、藤原道長が持参した紙の量が半端ない。まるで全50巻以上の物語を書くことが分かっていたようだ(笑)。ドラマでは、「『源氏物語』には、
・一条天皇に提出した物
・一条天皇に提出した物の写し(加除修正用)
・清書
の3部ある」としたので、3倍の紙が必要だとは思うけど、『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』じゃあるまいし、多すぎる。

※アラビア語名:Alf Laylah wa Laylah(「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」)
 邦題「千夜一夜物語」「千一夜物語」「アラビアンナイト」
 英語版の題名:Arabian Nights Entertainments

 昔々、サーサーン朝にシャフリヤールという王がいた(Shahryār:物語上の架空人物)。王はインドと中国も治めていた。ある時、王は妻の不貞を知り、妻と相手の奴隷たちの首をはねて殺した。 女性不信となった王は、街の生娘を宮殿に呼び一夜を過ごしては、翌朝にはその首をはねた。こうして街から次々と若い女性がいなくなっていった。王の側近の大臣は困り果てたが、その大臣の娘シェヘラザード(シャハラザード、شهرزاد)が名乗り出て、これを止めるため、王の元に嫁ぎ妻となった。 明日をも知れぬ中、シェヘラザードは命がけで、毎夜、王に興味深い物語を語る。話が佳境に入った所で「続きは、また明日」そして「明日はもっと面白い」と話を打ち切る。シェヘラザードの傍らには、妹のドゥンヤザード(英語版)がいて、横から「話がおもしろい」と盛り上げ役を演じる。姉妹による作戦によって、王は話の続きが聞きたくてシェヘラザードを生かし続けて1000日。ついにシェヘラザードは王の悪習を止めさせる。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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