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【簡潔版】お万の方(小督局)

 お万については、以前、調査&研究して記事を書いている。
 ただ、今、読み返してみると、「AはBである。しかし、CともDともいう」と、複雑で難解なマニアックなものになっている。

 そこで、お万について詳しくない方のために「AはBである」と、人名事典のように簡潔にまとめておこうと思う。

1.『どうする家康』のお万

『どうする家康』でのキャラ設定は「家康の心に入り込む神秘的な女」
https://www.nhk.or.jp/ieyasu/cast/oman.html

 出自については「知立神社の神主である永見氏の娘」で、身分は「岡崎では築山殿の侍女であったが、(戦乱で永見家が衰退したので)浜松城の下女に成り下がった」とした。
 性格は、築山殿に言わせれば、「(築山殿の侍女時代は)おっとりした、つつましい女子(おなご)」であり、浜松城では「迂闊者(うかつもの)」(不注意なあわて者)で通っていたが、それは「天然」ではなく、好感度を上げる「演技」であった。今風に言えば「あざと可愛い女子」となろうか。
 『どうする家康』のお万は、「我が家は、社(やしろ)でございますが、戦(いくさ)で焼けてしまい、父は死に、母は動けず」と言っている。お万は、傾いた永見家を立て直すため、湯殿で徳川家康を誘惑し、見事、お手つきとなって妊娠した。

 怒った築山殿が岡崎から浜松に来たことを知った同僚の下女たちは、お万を逃がそうとしたが、お万は一計を案じ、自分を縄で縛らせ、やって来た築山殿に詫びを入れ、(優しい築山殿が妊婦を折檻するはずがないと信じて)「お気の済むまで折檻して下さいませ」と言った。いい度胸である。これで築山殿は、全てを悟った。お万は「おっとりした、つつましい女子」ではなく、「頭のよい策士」であることに気づいたのである。
 また、お万の目的は「わが子を城主とすること」ではなく、「永見家を再興すること」であったので、目標を達成し、浜松城を去って行った。(一方、築山殿は、浮気をした徳川家康とお万に怒りを感じて浜松へ来たが、浮気ではなく、徳川家康がお万の甘い罠に引っかかっただけだと知って怒りが消えると共に、夫が人生で最も苦しい時にそばにいなかった自分を責めた。)

築山殿「お万、もう(芝居は)よい。私はそなたを見くびっておったようじゃ。おっとりした、つつましい女子じゃと。これでは、うちの殿などひとたまりもあるまい。見事じゃ。殿から金子をふんだんにいただくがよい。その金で、この子を立派に育てよ。焼けた社も再建するがよい。恥じることはない。それも女子の生きる術(すべ)じゃ。私は嫌いではないぞ」

お万「恥じてはおりませぬ。多くのご家臣を亡くされ、お心が疲れ切っている殿をお慰め申し上げたまで。男供は、己の欲しい物を手に入れるために戦をし、人を殺し、奪います。女子はどうやって? 人に尽くし、癒しと安らぎを与えて手に入れるのです。女子の戦い方の方がよほどよう御座います。
 私はずっと思っておりました。男どもに戦のない世など作れるはずがないと。政(まつりごと)も女子がやればよいのです。男供には出来ぬ事が、きっと出来るはず。お方様のような方ならきっと」

『どうする家康』

 さて、築山殿は、この後、諸国を巡って超越案を示し、「戦国時代のジャンヌ・ダルク」「導きの聖母」「紛争地域の国境を消す極悪テロリスト」「翼の生えた調停者」と呼ばれ、歴史学者が「日本史は『築山以前』と『築山以後』に分けられる」と評価する調停役(平和主義者)になれるだろうか? 彼女の遺志を子を生めない阿茶局が継ぐのか?(癒し担当は西郷局。)
 

2.お万(簡潔版)


 父親は、知立神社の神主であり、知立城の城主でもあった永見氏で、母親は水野氏。お万は築山殿の奥女中だったという。浜松城主・徳川家康が鷹狩りに来て岡崎城に泊まった時、湯殿でお手付きになった。妊娠が分かると、水野氏の養女とし、側室として浜松城に移したという。
 一方、永見氏側は、「徳川家康とは既に婚約しており、お万が16歳になったら結婚することになっていた」と主張する。実際は「永見氏が松平氏に従属する時に人質として差し出した娘を側室にした」のであろう。井伊氏が「築山殿は、井伊氏が今川氏に従属する時に人質として差し出した娘の子だ」と主張していることに酷似している。
 さて浜松城に入った「お万の方」(小督局)に対し、「お腹の子の父親は徳川家康ではなく、石川春長である」という悪い噂が立ったので、お万の方は浜松城にいられなくなり、浜松城を抜け出し、本多氏の屋敷に逃げ込んだ。本多氏は浜松城の石垣用「大知波石」が縁で知りあった豊田氏(トヨタグループ創業家の本家)に頼んで約40日間匿ってもらい、次に軍艦兵糧奉行の中村氏に頼んで匿ってもらった。お万の方が中村邸で男子を出産したことは徳川家康の知るところとなり、母子は本多氏預かりとなった。なお、永見氏側の史料では、生まれたのは、当時は忌み嫌われた双子であったので、1人は死産と偽って、永見氏が養子にしたとあり、永見氏は「徳川家康の後裔である」と主張する。

以上。【超大作】(7210文字)と比べると超短いなぁ(笑)。

■『浜松市史』次子秀康の誕生「誕生の諸説」

 この年(天正二年)家康の次子於義伊(結城秀康)が誕生した。四月八日参州産目村(安城市篠目か)で生まれたという説(『越前黄門行状』)と、二月八日辰刻に遠江国敷智郡宇布見の中村源左衛門正吉(『津山松平家譜』『中村源左衛門書上』『宇布見中村源左衛門由緒』)邸で生まれたとの両説がある。生母は於万の方または小督局といい、三河池鯉鮒(碧海郡知立町)の池鯉鮒大明神の神主永井(見か)淡路守小野吉英の女という(『津山松平家譜』)。また熱田社(名古屋市)祢宜村田意叮の女との説もある(『幕府祚胤伝』『玉輿伝』)。於万の方は妊娠したため、家康夫人築山御前の非道な折檻をうけた。本多重次に助けだされ、二月八日浜松の城外有富見村で於義伊を出生したという(『以貴小伝』)。
【宇布見中村氏】ここが宇布見郷の代官中村源左衛門正吉の邸であろう。中村氏の屋敷には、明治十七年(一八八四)十月五日建立の胞衣塚碑がある。於義伊の誕生地が参州産目村であるとの説も現地にはその所伝が残っておらず、宇布見の中村正吉邸に比定するのが、より高い確率をもっている(中村孝也『家康の族葉』)。

■『中村家由緒略記』『中村源左衛門書上』他

■『以貴小伝』「小督局」

小督局 名は「おまんの御方」。永見志摩守小野吉英が女にて、第二の御子・結城殿の御母上也。
 一説に永見志摩守は、三河国池鯉鮒の人也。おまんの方、いとけなき時より、徳川殿の北の方・築山殿に宮仕へせしに、君の御うつくしみを受けて、身、重くなりしかば、築山殿しらせ給ひ、ある夜、おまん殿を赤裸にして縄以て縛(いまし)め、浜松の城の木深き所に捨てさせられしに、折りしも本多作左衛門重次、殿居(とのゐ)して、女の泣く声を訝(いぶか)り、訪ね来りて、此の有り様を見、急ぎ縛めを解き、事の故を聞きて密かに己が家に伴ひ帰りて介抱し、其の後、君にそと申したりければ、如何に宣ひしにや、重次、そのままに傅(かしづ)きて、天正2年の2月、浜松の城外、有富見村といふ所にて御子を産めり。これ、則ち、於義丸にておはす。かかる事なれば、しばしは御対面も無く、重次、万(よろず)育み参らせし也。
 また一説には、おまん、身、重くなりしかば、北の方に漏れ聞こへて憂き目見ん事を恐れ、密かに忍び出でて、本多豊後守広孝(「高」異)が家の大人・本多半右衛門が家に走り入り、「しかじかの事也」と云ひしかば、本多半右衛門につけしに、重次、密かに君に申して、己が許に迎へ取り、介抱せしと云ふ。いづれが誠なるにや。

3.お万解説動画集

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