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糟目春日神社は式内・糟目神社か?

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祭祀殿竣工記念碑
七級社 糟目春日神社
鎮座地 豊田市渡刈町北田六二番地の四
 祭 神
  天宇受賣命
  彦火火出見命
  素戔嗚命
 由 緒
一、 大宝二年持統上皇三河國に行幸当地に御駐蹕の砌り鷹狩し給うよつてこの地を鳥狩鳥捕都賀利戸苅と言ひ今日渡刈と書くに至れり当時すでに糟目神社を祀れり
一、 第六十代醍醐天皇の御代に延喜式に載せられ、文徳実録に正四位糟目神社とあり勝女大明神又は塩指大明神と云はれ矢作川上流西方一大原野をカスメ郷末野ヶ原と称し三河の海の満潮時には潮指し来たれりと伝う
一、 明治二年神祇官より延喜式内社に確定される
一、 明治五年七月旧額田県より「春日」の文字を加称して同年九月郷社に確定される
一、 明治三十九年四月供進神社に指定される
一、 大正二年無格社熊野社合祀現在地を拡大整備せり
一、 大正三年十月五日神殿八棟を新規築造奉斎せり
一、 昭和五十二年十月幣殿祀殿渡り殿を再建
一、 崇敬の誠を顕し以つて之を後世に伝う
 末 社
  社口社 猿田彦命
  秋葉社 火産霊命
  山ノ神 大山祇神

 糟目犬頭神社と共に式内・糟目神社の論社である糟目春日神社へ行ってみた。

★「渡刈自治区」公式サイト
http://www.hm.aitai.ne.jp/~togari/hp3/pages/home.html
★「糟目春日神社」公式サイト
http://kasumekasuga.com/pages/home.html
★糟目犬頭神社「三河国(愛知県岡崎市)の飛犬頭伝説」
https://note.com/sz2020/n/nac9e19f11e03

 鎮座地の現在の住所は「愛知県豊田市渡刈町北田62-4」である。「式内・糟目神社」は、矢作川の氾濫で何度も流失したという。
・最初の鎮座地、不明。
・天明年間(1781-1789)、20間(約36m)東から「糟目春日神社之跡地」碑がある場所(渡刈町大明神12)へ遷座。
・大正2年(1913年)、熊野社を合祀し、現在地(熊野社の社地)へ約1km北から遷座。
 古代の地名は「糟目」で、「式内・糟目神社」が鎮座していたが、持統上皇が三河国に来て、そこで鷹狩をしたので、「鳥狩」と地名を変え、現在の表記は「渡刈」だという。

■「糟目春日神社」公式サイト
一、大宝2年(702年)持統上皇、三河国に行幸。当地に御駐蹕の砌り、鷹狩し給う。よってこの地を「鳥狩」「鳥捕」「都賀利」「戸苅」と言い、今日、「渡刈」と書くに至れり。当時、すでに糟目神社を祀れり。
一、第60代醍醐天皇の御代に『延喜式』に載せられ、『文徳実録』に「従五位下 糟目神社」とあり、「勝女大明神」、又は、「塩指大明神」と云われ、矢作川上流西方、一大原野を「カスメ郷末野ヶ原」と称し、「三河の海の満潮時には潮指し来たれり」と云う。
http://kasumekasuga.com/pages/yuisho.html

(1)「糟目(かすめ)」の語源


「糟目(かすめ)」の語源については不明である。

・説①:河岸間(かしめ)
「糟目の語源は河岸間であろう。間はある地域を指す語である。狭間」(志賀剛『式内社の研究』)
川岸。「按に、予(注:羽田野敬雄)、天保10年8月、其(注:糟目神社)の社地を尋ねて参詣(まゐで)しに、社地は上渡刈村と今村の間、細川の渡し場の西の川岸にありて、上渡刈の地にて、「塩指(しほさし)大明神と称す。其の棟札に「糟目神社」とあり。されど、古き物とは見えず」(羽田野敬雄『三河国官社考集説』)

・説②:「渡河点」の意の古語。
・説③:別称「塩指大明神」なだけに、「三河湾の潮の満ち干が観測できる(影響が出る)北端(境界、境目)」の意。

■「糟目春日神社之跡地」碑(現地案内板)
「矢作川畔の汐差(しおさし)神社」
 渡刈町で祭られている汐差神社は、昔三河の海(碧南)が満潮になると、川下から舟が上がってくる程汐が差してきたと言います。
 これを「汐差」と言い、満潮・干潮の自然現象を利用して、農作物や味噌・醤油などを舟で運ぶ、物流の大動脈に利用されていました。
 反面、水害にあう事もしばしばで、水難除け・商売繁盛のためこの神社が建てられたと言い伝えられています。
                            渡刈町


・説④:別称「勝女大明神」なだけに、糟目=勝女=天宇受賣命

 式内・糟目神社の御祭神がどなたであるか不明だが、糟目春日神社の現在の御祭神は、春日神 (武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神(天児屋根命の妃神)の総称)ではなく、天宇受賣命である。
 「アマノウズメ」は、『古事記』では「天宇受賣命」、『日本書紀』では「天鈿女命」と表記する。「鈿」は「簪(かんざし)」の意であるので、名は「髪飾りをした女」の意とも解されるが、『古語拾遺』では「強女(おずめ)」の転訛とする。
 糟目→勝女ではなく、勝女→糟目ではないか?
 鈿女(うずめ)=強女(おずめ)→勝女(かちめ)→糟目(かすめ)?

 そもそも春日神社なのに、春日神を祀っていないってことは、春日(かすが)は地名で、糟目(かすめ)と同義(「が」は「所、処」、「目」は「境目、継ぎ目」)なのでは?
 ただ、語源を考える上で重要なのは漢字ではなく訓(読み方)である。「糟目」は本当に「かすめ」なのか? 「かすもく/かすも」「かしま(鹿島神)」ではないか?

■羽田野敬雄『三河国官社考集説』(『三河国官社私考』(上)所収)
○渡刈村の神主・神谷仙太夫、云ひおこせけらる。「此の社、古くは今の社地より20間許東、川岸にあり。然るを洪水にて社、鳥居等まで押し流したる故、天明年中、今の社地ヘ遷シ坐せり(古城の跡なり)。古の社地には神池ありて、古は、これまで汐、さしたるに依て、俗に「塩指大明神」と称す。其の所、東は額田郡、北は加茂郡、西南は碧海郡にて、此の辺、凡800間が間の地名を「糟目」と称す。俗には「カスモ」とも唱ふ。往古は渡刈の人家もカスモの地に有りて、産土神なりしを、人家を今の村地にうつし、其の処所にも鹿島社を勧請して、今は両産土神也。されど社田もカスモの地にあり。又、棟札は、先年流失の後、先規の形に書記したるにて、年号月日もなし」といへり。
https://www1.library.toyohashi.aichi.jp/toyohashi_library/catalog/09kyoudo/ky_0061/top.html

※『三河国二葉松』には糟目神社は掲載されていない。(犬頭神社は記載されているが、紹介文は犬頭霊神についてであって、糟目神社については触れていない。)掲載されている渡苅村の神社は、
「渡苅村鹿島大明神 社領3石 神主・神谷権兵衛」
だけである。そこで、渡苅村へ糟目神社の取材に行った羽田野敬雄は、渡苅村鹿島大明神の神主・神谷氏にインタビューしたのであろう。
上郷(かみごう)┬上野(うえの) :上野
        ├畝部(うねべ) :中切、宗定、川端、上中島、
        │         阿弥陀堂、国江、配津
        ├寿恵野(すえの):渡刈、鴛鴨、隣松寺、永覚新郷
        ├桝塚(ますづか):桝塚
        └和会(かずえ) :和会、広畔新郷、福受新郷

※末ノ原の中切が三河末氏の本拠地で、中桐(松平)に転居?

(2)「渡刈(とかり)」の語源


説①:渡河里(渡河点に発達した村落)
説②:鳥狩(持統上皇鷹狩の地)

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[歌番]『万葉集』巻11-2638番歌
[題詞](寄物陳思)【恋愛歌】
[原文]梓弓 末之腹野尓 鷹田為 君之弓食之 将絶跡念甕屋
[訓読]梓弓末の原野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
[仮名]あづさゆみ すゑのはらのに とがりする きみがゆづるの たえむとおもへや
[意味]梓弓(あづさゆみ。枕詞)「末の原野」(「寿恵野の原野」で豊田市上郷町。もしくは「陶の原野」で陶邑(現在の大阪府堺市陶器)の原野)で鷹狩をされるあなたの弓弦(ゆづる。ここでは「あなたと私を結ぶ赤い糸」)が切れるなどとは思いもしません。

■鳥狩塚(現地案内板)
 所在地:渡刈町大明神38-1
 昔、渡刈付近一帯の原野を末野原と呼び、大宝2年(702年)持統上皇が当地に行幸され鷹狩が行われ、この地を鳥狩村と称されたと続日本紀に記してあります。
 その後、都賀利、登加利、戸刈、渡苅と変わり、明治時代に今の渡刈になったと言われています。
 古人の詠歌も多く「梓弓すゑのはらのに鳥狩りする君か弓弦のたゆむとおもへは」と万葉集に詠われております。
                            渡刈町

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■「末野原聖蹟」碑文
伝云ふ。大宝2年持統上皇三河に行幸あらせられ蹕此の地に駐の鷹狩の事を行ひ給ふ依て地名を鳥狩と称し後世都賀利戸苅等の字を用ひ遂に渡刈と記するに至れり而して渡刈の北方の地を古来末野原と曰ふ中に数個の古塚あり鳥狩塚と称し里人今猶ほ之を尊崇畏敬す萬葉集に載する所の梓弓末之腹野尓 鷹田為君之弓食之将絶跡念甕屋の歌は此の地を詠したるなる可し其の他古詠頗る多し今茲に大典に当り謹て聖跡を顕揚し碑を建設し以て之の後世に伝ふ
   大正4年丁卯11月 早川龍介謹書 今井新太郎刻


 戦国武将(男性)が好きな鷹狩を持統上皇(女性)も行った?
 三河国の反政府勢力を、まるで草を薙ぐが如く刈り取った(抹殺した)のを「鷹狩」と婉曲に表現しただけだと思う。死体を埋めたのが「鳥狩塚」?

◆鳥狩塚(鳥狩塚古墳):直径21.5m、高さ2.5mの古墳時代後期の円墳。

★「持統天皇伊勢行幸/持統上皇三河御幸」
https://note.com/sz2020/n/ncbf8870b61f6


説③:鳥捕(奈良官道(伝馬の道)の鳥取駅)
 通説では、鳥取駅家は岡崎市宇頭(うとう)町にあったとする。「うとう」地名は各地にあり「細い坂道」の意だというが、岡崎市宇頭町の宇頭は、尾崎(「岡崎」の語源)とセットだという。
 ちなみに、私は、岡崎市宇頭町の「宇頭」は「宇受(うず)」、いや、「宇津(うづ)」で、宇津氏の本貫地だと考えている。

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説④:戸賀
 足利義実3兄弟の実国と義季は対岸の仁木、細川を本拠地とした。上渡刈に「潮崎神社」があり、義宗は戸賀崎=渡刈に住んでいたように思われがちであるが、戸賀崎氏の本貫地の 戸賀崎は三河国幡豆郡戸賀崎郷(現在の愛知県西尾市戸ヶ崎町)であって、ここではない。

 足利義実 ┬実国【岡崎市仁木町。仁木氏】…榊原康政(豊田市上郷町)
      ├義季【岡崎市細川町。細川氏】
      └義宗【西尾市戸ケ崎町。戸賀崎氏】

説⑤:門ヶ里
 川が山から平野に出る山間部と平野部の境界を「山門(やまと)」といい、海に出る河口を「水門(みと)」という。山門に発達した扇状地を「とが(都賀、刀我)野」という。「とがり」は「門ヶ里」で、山門(山間部と平野部の境界)に発達した村落。

 三河国一宮・砥鹿(とが)神社の「砥鹿」に関係しているかもしれない。

(3)式内・糟目神社

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■「糟目春日神社」公式サイト
一、明治2年神祇官より延喜式内社に確定される。
一、明治5年7月、旧額田県より「春日」の文字を加称して同9年、郷社に確定される。
http://kasumekasuga.com/pages/yuisho.html

 明治2年(1869年)、渡刈村が独自に調査し、式内社の認定を受け、「春日神社」が「糟目神社」と社号を変えると、犬頭神社から「待った!」がかかった。犬頭神社こそ式内・糟目神社だという。そこで政府は学者を派遣して調査させると、その結果は、
「分らない」
ということであったので、明治5年(1872年)、額田県が、両社の社号に「糟目」を加称させることで一応、決着した。

■『犬頭神社由緒書』(羽田野敬雄による要約)
 文武天皇の大宝元年9月15日、彦火火出見の命を鎮座(いはひ)奉りて、糟目神社と号し、天皇より圭田20束を賜ふ。
 其の後、66代一条院の永延元年亥6月15日、熊野三所権現を合殿[相殿]に祀る。
 其の後、文和2年壬辰9月上旬、上和田の城主・宇津宮[宇都宮]左近将監泰藤、この社地に狩りせし時、犬の為に危難を免るる。依て熊野の末社に犬頭霊神と崇(おがめ)祀る。尾は下和田の新宮に祀りて、「犬尾霊神」と号す。
 慶長8年、東照神君の社領43石賜へる時、「犬頭大明神」として賜へり。是より、本末合殿に祀り、「糟目神社 犬頭大明神」と号す。

◆参考
糟目犬頭神社由緒略記

私の結論は、
・糟目春日神社=式内・糟目神社+鹿島神社
・糟目犬頭神社=式外・糟目神社+犬頭神社
です。

犬頭神社が式内・糟目神社だとしても、「糟目神社」に社号を変更するよりも、「犬頭神社」と変更した方が、全国的な知名度は高いと思う。

さて、糟目春日神社については、
・なぜ主祭神が天宇受賣命なのか?
・なぜ鹿島神が祀られていないのか?
・合祀した熊野神はいずこ? 素盞男命が熊野神?
という謎が残されています。
ご存じの方は、コメント欄へどうぞ。

《糟目春日神社の御祭神》

・天宇受賣命、彦火火出見命、素盞男命、火産霊命(公式サイト)
・彦火火出見尊、天宇受売命、素盞男命(『式内社調査報告 東海道4』)
・彦火火出見尊、天宇受売命、素盞男命、火産霊命(『愛知県神社名鑑』)
・天宇受売命、彦火火出見尊(『明治神社誌料』『碧海郡誌』)
・鹿葦津姫命(『神名帳考証』)
・祭神不詳(『神社覈録』『特選神名牒』)



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