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藤長庚『遠江古蹟図会』054「牧之原古城蹟」

 巨大な「丸馬出」で有名な「後堅固の城」です。

『遠江古蹟図会』

※牧之原古城:馬を放牧する「牧之原」にあるので「牧之原城」とも、「牧野城」とも。「牧之原」に武田信玄が諏訪神社を建てたことから「諏訪原」と呼ばれ(秋葉神社がある台地を「秋葉原」と呼ぶようなもの)、「諏訪原城」とも。

※牧之原古城之図:複数確認されている。『遠江古蹟図会』の図は、二十三夜堂の堂守(修験者)が持っていた図の写しだという。

「遠州諏訪原図」
「諸国古城之図」
「遠州諏訪原城 馬場美濃守縄張」
「諏訪原城絵図面」

※二十三夜信仰: 旧暦23日の夜に「二十三夜講」(「月待講」とも)の参加者が二十三夜堂に集まって「月待」(飲食を共にしながら月の出を待つこと)をすること。 この夜には神の示現があると信じられていた。

1.原文

 金谷と菊川の間に「牧之原」と云有。此原に古城の蹟有。今に掘割、石垣杯、残て在。
 「諏訪の原」とも云、諏訪明神の社有れば号(なづ)く。『甲陽軍鑑』に曰「天正元年癸酉、武田勝頼、下知を以て武田信豊、馬[場]美濃守信房、遠州諏訪原に城を築く」と云。
 同天正三年乙亥八月十四日、落城。今年享和二戌年迄二百廿九年に成也。
 本城より乾の方へ当り、信州へ御通道有。
 牧之原の内、北側に廿三夜堂有。堂の脇より道有て、古城跡へ二丁程北へ入る井戸は、今は草、生茂り、漸(やうやく)尋(たつね)て井戸有て知る也。
 明神の社、今に有。
 高天神よりも城蹟分り安し。
 此図、廿三夜堂守より借て写し図に記すれのや。今年戌年迄二百廿九年と成。

2.現代語訳

 金谷と菊川の間に「牧之原」という台地がある。この台地に古城址がある。今も掘割、石垣等が残っている。
 この「牧之原」台地を「諏訪の原」ともいう。諏訪神社があるから、こう名づけられた。『甲陽軍鑑』に「天正元年(1573年)、武田勝頼の命令で、武田信豊、馬場信房が、遠江国の諏訪原に城を築く」とある。
 天正3年(1575年)8月14日、落城。今年(享和2年(1802年))の229年前になる。
 この城から乾(北西)へ、信濃国(長野県)へ通じる道がある。
 牧之原の北に二十三夜堂がある。
 二十三夜堂の脇に道があり、古城跡へ約2丁(218m)北へ入ると「鏡井」(注)がある。今は草が生い茂って分かり辛いが、その場所を人に聞いてなんとかたどりついた。
 諏訪神社は今もある。
 高天神城よりも(堀などがくっきりと残っていて)城跡であることが分かり易い。この縄張り図は、二十三夜堂の堂守に借りて写した図である。今年で229年となる。

(注)「鏡井」の説明は、このネットに公開されている下書き版にはないが、市販されている清書版には「落城の時、馬場信房の娘が、母から譲られた鏡を持って身投げした井戸」と説明がある。


 諏訪原城は、天正元年(1573年)に武田氏が築城し、天正3年(1575年)に徳川氏が落とし、「牧野城」と名を改め、改修したお城です。
 『遠江古蹟図会』の作者は、築城229年後の享和2年(1802年)に訪れたといいますが、今年はそれから221年後の2023年。築城450周年という節目の年であり、今月もイベントが開催されます。

■諏訪原城応援隊
隊 長:春風亭昇太師匠(静岡県静岡市清水区出身のお城好きな落語家)
副隊長:加藤理文先生 (日本城郭協会理事。諏訪原城整備委員会委員)
隊 員:片川乃里子さん(フリーアナウンサー)

 イベントでは諏訪原城の法被を着たいのですが、寄付金込みで2万円以上・・・城の保存に尽力したい気持ちはあるのですが、最低2万円では、高くて無理です(泣) そもそも交通費が・・・富士山静岡空港(静岡県牧之原市坂口)から近いのですが・・・(泣)。


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