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第26回「ぶらり富士遊覧」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日   佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日   岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。



1.「高天神城の戦い」

 高天神城攻めは、周囲に砦を築いての「兵糧攻め」でした。米が無くなり、水も井伊直政に断たれて、最後は草木を食べていたようです。
 そして打って出ました。ドラマでは昼間の戦いに描かれていますが、実際は夜の戦いです。打って出た城兵の思いは「最後の力を振り絞って戦おう」ではなく、「最後の力を振り絞って暗闇に紛れて逃げよう」だったのかもしれませんね。史実の岡部信元は城外の山麓(供養等の場所)で討たれています。

2.武田氏の滅亡とぶらり富士遊覧

 武田勝頼が
「去りたい者は去れ」
と言うと、穴山梅雪は「諏訪大社のご加護を」と別れを告げました。
 本来は2年半前、望月千代が去った時に去りたかったのでしょうが、その時は出家に留めました。そして今回、
「諏訪大社のご加護を」(諏訪大社の大祝家である諏訪氏の当主の諏訪勝頼こと武田勝頼に諏訪大社のご加護がありますように)
と言いました。失礼ですね。最後なんだから、せめて、
「諏訪大明神のご加護を」(武田信玄は兜の前立てに諏訪大社を頂点とする各地の諏訪神社のご祭神である諏訪大明神のお札を立て、旗に「南無諏訪南宮法性上下大明神」と書いて戦いました。息子のあなたにも諏訪大明神のご加護がありますように)
くらい言ってやれよ。
 そもそも「~神社のご加護を」って変。「~神のご加護を」だろ。
 さらに言えば、諏訪神社の名称は、戦国時代の文書では「諏訪社」「上宮」「上社」等であり、分社の諏訪神社と区別するために「諏訪大社」と名乗ったのは昭和23年(1948年)のこと。(大河ドラマの台本は各回3冊作られるそうです。優秀な3人の時代考証の学者が、2度もスルーしたことになります。私が時代考証なら脚本家に「当時は『諏訪大社』ではありませんし、『神社のご加護を』という言い回しは変です。『神のご加護を』が普通です。『諏訪大明神のご加護を』に変えましょう」とはっきりと言いますけどね。)
 結局、穴山梅雪は、武田勝頼のことを「武田勝頼ではない。諏訪勝頼である」と、最後まで武田家の当主であることを認めなかったことになります。認めていれば、
「御旗、盾無しのご加護を」
とでも言ったことでしょう。
 一方、武田勝頼は、家臣に「武田勝頼ではない。諏訪勝頼である」と武田家の当主であることを認められなくても、最後まで「我こそは武田勝頼なり」と名乗って戦いました。

 天正10年3月11日(1582年4月3日)巳の刻(午前11時頃)、武田勝頼は木賊山(とくさやま)の天目山棲雲寺を目指していました(「天目山」は棲雲寺の山号で、天目山棲雲寺があった山の当時の名は木賊山であるが、現在は天目山に改称)が、山麓の田野(山梨県甲州市大和町田野)で、滝川一益の追手に捕捉され、討たれたとも、自害したとも(「田野合戦」)。享年37。これによって、甲斐武田氏は滅亡しました。

○討死説:『甲陽軍鑑』『三河後風土記』『当代記』『どうする家康』
○切腹説:『信長公記』『甲乱記』『理慶尼記』『三河物語』

 土屋殿矢尽て刀をぬかんとせらるゝ時、敵、鑓六本にてつきかくる。勝頼公土屋を不便に思召候や、走寄給ひ、左の御手にて鑓をかなぐり、六人ながら切ふせ給ふ。勝頼公へ鑓を三本つきかけ、しかも御のどへ一本、御脇の下へ二本つきこみ、押ふせまいらせて御頸を取候。

(土屋昌恒は、矢が尽きたので、刀を抜こうとした時、敵・織田軍は槍6本で突き掛かった(槍を持った6人が一斉に襲い掛かった)。武田勝頼は、それを不憫に思ったのか、走り寄り、左手で刺さった槍を抜き取ると、織田軍の6人全員を切り伏せた。織田軍は、武田勝頼に槍3本で突くと、1本が喉、2本が脇の下に刺さり、押し倒されて首を取られた。)

『甲陽軍鑑』
https://dl.ndl.go.jp/pid/777965/1/92

自害した武田勝頼の辞世は、
  朧なる月のほのかに雲かすみ 晴て行衛(ゆくえ)の西の山の端(は)
で、介錯人・土屋昌恒の返歌(辞世。介錯を務めた後、武田勝頼に抱きつき、追腹)は、
  俤(おもかげ)のみおしはなれぬ月なれば 出るも入るもおなじ山の端
だそうです。

 何れの打ち物、抜き持ちて出で給ひ、散々に戦ひ給ふ。土屋兄弟三人も、同じく戦ひければ、先へと進むつはものを、悉く滅し給へば、後なる勢はこれを見て、之を支(ささ)へて居たりければ、「よき時刻ぞ」と思し召し、「如何に土屋、敷皮直せ。御腹召さるべし」と仰せければ、「承る」と申て、御敷皮奉り、御介錯参る。直らせ給ひて、御辞世とおぼしくて、斯くこそ詠じ給ひけれ。
  △朧なる 月のほのかに 雲かすみ 晴て行衛の 西の山の端
と遊ばしければ、土屋、取り敢へず、斯くこそ申し参らせけれ。
  △俤の みをしはなれぬ 月なれば 出るも入るも 同じ山の端
 其の後、「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、即成就仏心」と、此の文の称へさせ給ひて、御年三十七と申すに、田野の草葉の露と消えさせ給ふ。土屋、御死骸に抱き付き、軈(やが)て「御供申すべし」とて、深く涙に沈みける。

((織田信忠軍滝川隊が迫ってきたので、武田勝頼一行は)皆が武器を手にし、バラバラに散って戦った。土屋3兄弟(「片手千人斬り」の土屋昌恒等)も戦い、先へと進む武田軍の兵士を悉く討ち取ったので、後方の兵士はこの様子を見て、後方を支えていた(前に進まなくなった)ので、武田勝頼
は「(切腹する)頃合である」と感じ、土屋昌恒に「敷皮(毛皮の敷物)を直せ。腹を切る」と言ったので、土屋昌恒は「承知」と返し、敷皮を整え、介錯の用意をした。武田勝頼は(切腹の作法通り、西方浄土がある西を向いて)座り、辞世として、次のように詠んだ。
 △朧ろ月で、微かに雲で霞んでいたが、今は晴れて西の山に沈んでいく。
 (私の人生は先の見えないものであったが、死を迎えた今は、
  心も晴れ晴れして、西方浄土に向かっていこうとしていることよ。)
と詠むと、土屋昌恒は、すぐに返歌を次のように詠んだ。
  △面影が身を離れない月ですから、
   出るのも、沈むのも、あなたと私は同じ山です(離れませんよ)。
 その後、武田勝頼は「毎自作是念、以何令衆生、得入無上道、即成就仏心」と(陣僧に?)『法華経』の偈文を唱えさせ、享年37歳で、田野の草葉の露と消えた(絶命した)。土屋昌恒は、武田勝頼の遺体に抱きつき、しばらくして、「御供します」と言って、泣き伏し(追い腹を召し)た。)

理慶尼(武田信友の娘。武田信玄の従妹。武田勝頼の乳母)が書いた『理慶尼記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1241021/1/98

 織田信長は、武田勝頼の首を3月14日に浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)で実検し、飯田で晒した後、京都で晒しました。武田信玄は上洛したがっていたが病死により果たせなかったので、せめて息子の首を上洛させてあげようという配慮だというが、武田勝頼は朝敵扱いであり、朝敵の首は京都で晒すのが慣例であったためだという。

 武田勝頼の首は、田野(死亡した場所。織田信忠と滝川一益が首検分)→浪合(織田信長が首検分した場所)→飯田(晒された場所)→京都(晒された場所)と移されたのであり、ドラマのように、徳川家康は武田勝頼の首を見ていないと思います。(少なくとも、織田信長と一緒には見ていない。)
 ドラマの明智光秀は「憎ければ蹴ってもよいぞ。上様の承認は得ている」と言いました。「上様の承認は得ている」ということは、既に「蹴ってもいいですか?」と申し出た者がいるってことではないか? それは明智光秀ではないか? と思いましたが、「織田信長が武田勝頼の首を蹴った」という話のアレンジでしょう。

勝頼の首を滝川が士・滝川荘左衛門という使番に持たせて、信長に見せ思せば、さまゝに罵(ののし)りて、杖にて二つつきて後、足にて蹴られけり。

(織田信忠の命令で、武田勝頼の首を、滝川一益の家臣・滝川荘左衛門(『信長公記』では関可平次、桑原助六の2人、『理慶尼記』では滝川一益)という使い番に持たせて織田信長に届けると、織田信長は、武田勝頼の首に様々な罵声を浴びせ、杖で2度突き、足で蹴った。)

湯浅常山『常山紀談』

 徳川家康は変わりました。徳川家康は、織田信長を「上様」と呼び、従順に付き従うようになりました。徳川家家臣は「徳川家康は変わった。ふぬけになった」と感じていましたが、織田信長は違った見方をしていました。
 そんな中、徳川家康は安土へ戻る道中に「上様(織田信長)を接待したい」と申し出て、側室・於愛や茶屋四郎次郎も加わっての饗応「富士遊覧」が始まります。織田信長は徳川家康を試しました。「温泉には行かない」と断ってみました。「厭離穢土 欣求浄土」のスローガンを「あれは気味が悪い。気分が萎える」とけなしてみました。以前の徳川家康ならば、怒ったでしょうが、織田信長のスローガン「天下布武」を讃える「海老すくい」を披露しました。織田信長は側近・明智光秀に言います。
「あれは変わったな。腹の内を見せなくなった。化けおったな」
「化ける」のは狐や狸が得意とするところです。オープニングアニメの「富士に狸」は、「ぶらり富士遊覧」と、「徳川家康の狸親父化」を示しているのでしょうね。

3.徳川家康の野望 ━「絶望」から「野望」へ ━

 ついに徳川家康が覚醒しました。徳川家康は家臣たちに
「信長を殺す。わしは天下を獲る」
と本心を静かに告げました。

■徳川家康が恨んでいるのは誰か?

 徳川家康覚醒のきっかけは、間違いなく「正室・築山殿と嫡男・信康の死」でしょう。そして、ドラマでは、2人の死の原因は「武田勝頼による『築山の謀』の暴露」としました。ところが、徳川家康は、武田勝頼の首を見ても、怒りを表さなかったので、織田信長も、明智光秀も驚き、「もしかしたら、怒りの矛先は自分かも?」と思った織田信長は「恨んでいるのは別の誰かか?」と聞くと、徳川家康は、「いません。2人の死は、2人の不行状が所以」と言い切りました。
 そして最後に怒りの対象が織田信長であることが、徳川家康の本心が判明します。
「信長を殺す。わしは天下を獲る」
でも、ちょっと待ってください。本当に怒りの対象は織田信長でしょうか?
 であれば、「信長を殺す。わしは天下を獲る。エイ、エイ、オー!」と大声で高らかに宣言するはずです。なぜ、闇落ちしたかのように見える暗い表情でボソッと言ったのでしょうか?
 想像するに、徳川家康が最も憎んでいるのは、妻子を守れなかった不甲斐ない徳川家康なのでしょう。
「信長を殺す。わしは天下を獲る」
は、
「現在の天下人を殺す。そしてわしが天下人となって戦の無い世にする」
という意味だと思います。
 徳川家康は、心の中で、
「瀬名、信康、すまぬ。瀬名の策を聞いた時、『政治は男に任せておけ。わしが天下を獲ってそなたたちが望む戦の無い世を作ってみせる』と言えなかった自分が不甲斐なく、憎い。でも、ようやく決心した」
と思っていたことでしょう。
 「築山の謀」は時代を先取りしていました。王者が居なくなって、「これから先、どうしよう?」となった時に天皇に進言するような策です。「築山の謀」を聞いた徳川家康は、「織田信長がいない東国なら可能かも?」と思って乗ったのでしょう。そして、瀬名に「兎は狼よりも強い」と言われ、「織田信長を倒せばよいのだ」と決意し、覚醒したのでしょう。

■天正10年(1582年) 織田信長の「ぶらり富士遊覧」

4月10日 甲府発。右左口(甲府市中畑町)泊。
4月11日 右左口発。本栖泊。
4月12日 本栖発。大宮(富士山本宮浅間大社)泊。
4月13日 大宮発。江尻(江尻城)泊。
4月14日 江尻発。田中(田中城)泊。
4月15日 田中発。掛川(掛川城)泊。
4月16日 掛川発。浜松(浜松城)泊。
4月17日 浜松発。吉田(吉田城)泊。(酒井忠次接待)
4月18日 吉田発。知立(知立城)泊。(水野重忠接待)
4月19日 知立発。清洲(清洲城)着。
4月20日 清洲発。岐阜(岐阜城)着。
4月21日 岐阜発。安土(安土城)着。(稲葉一鉄(呂久の渡し)、織田勝長(垂井)、不破直光(今洲)、菅屋長頼(柏原)、丹波長秀(佐和山)、山崎秀家(山崎)接待)


★今後の『どうする家康』

・第27回「安土城の決闘」(7/16)
・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「

※大河ドラマガイド「どうする家康 後編」は5月31日に発売されました。※ノベライズ3巻は7月25日、4巻は9月発行予定です。


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