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知多半島の式内社(尾張国知多郡)

 「尾張国は八岐大蛇の形をしている。稲沢市が目で、知多半島が尾だ」というが、私にはオタマジャクシ、いや、横から見たタツノオトシゴにしか見えない。そもそも八岐大蛇なら目は16個だぞ。

 知多半島は明治用水がひかれるまでは不毛の地であった。水が無かったので、人口密度が低い。尾張国には式内社が121社あるが、広い知多郡に式内社は、なんと、なんと入見神社、阿久比神社、羽豆神社の3社しかない。

式内・入見神社 :入見神社 (知多郡南知多町内海中之郷)
式内・阿久比神社:阿久比神社(知多郡阿久比町阿久比北下川)
式内・羽豆神社 :羽豆神社 (知多郡南知多町師崎明神山)

■入見神社

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 内海(うつみ/うちうみ)、入見(いるみ/いりみ)は、入海であり、創建時は、中之郷森山の社前まで海だったという。その後、真北に位置する井際山の山頂へ遷座。井際山の山頂には、大きな松が生え、航海の「見立山」(航海の目印とされ、海上安全の信仰対象とされてきた山)となっており、祠には鏡が置かれ、遠くからでも光って見えたという。馬場地方の開発で潮干天神へ移し、さらにまた元の鎮座地(中之郷森山)に遷座した。

 山頂に神が降臨したので神社を建て、その後、参拝しやすいように、山麓に遥拝所、さらに里宮を建てたという話はよく聞くが、その逆なのが珍しい。(御祭神は海から来た神なのであろう。) 

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 内海の馬場区、北脇区、中之郷区の氏神で、毎年4月の第1日曜日に行われる「三郷祭り」では、それぞれの区が、馬杓、棒の手などを奉納する。

 御祭神は八王子(五男三女神)で、江戸時代は「八王子社」と称していた。宗像三女神は「道主貴」(みちぬしのむち。あらゆる「道」の最高神)とも呼ばれる航海安全の神であり、境内も舟の形をしている。

祭八山神山在尾張知多郡周囲数町有古松十余株内海八勝之一而海客毎以爲航標数百年前爲入見神社祭地事詳於元禄棟簡磯部舜平嘗日當地属馬場村共有他日若有売地而伐樹則不独損勝区併失海客之航標我当買而存之明治某歳村入將売之嗣子久太郎以金若千買適昇平自駿河帰喜其能承志自鮮腰纒以腰其便其姪命彦嗣小鈴谷村盛田氏者也亦以其係桑梓請同其事舜平不聴爾來爲其有者十余年頃日久太郎以謂如此而多経年所則恐途違先人志不若寄請本社乃謀干命彦懲慰以成其挙且將建碑於山上以傳不朽請文於鹸鹸亦爲姻戚誼不可辞乃記其由溝口幹撰小田俊作書

◆梅原猛(1925-2019)は、『隠された十字架 法隆寺論』『水底の歌 柿本人麿論』等の著作で知られる哲学者である。宮城県仙台市で生まれ、愛知県知多郡南知多町内海で育つ。(実父は東北大の学生・梅原半二、実母は、下宿先の娘・石川千代。両家共に結婚を認めなかったので、私生児として誕生した。すぐに実母が亡くなり、生後1年9ヶ月の時、内海の名士であった伯父夫婦に引き取られて養子となる。子供の頃はこの入見神社でよく遊んだという。旭丘高校を受けるが不合格。東海高校(浄土宗)には合格し、内海から片道2時間半をかけて通学したという。京都大学文学部哲学科に合格すると、トヨタ自動車に務めていた実父の元に戻り、岡崎市矢作町に住んだ。)

■阿久比神社

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 『鎮座記』では、成務天皇元年1月1日、白髪&白鬚の老翁が出現し、五穀豊穣のため、阿久比の地主神を祀るように告げると立ち去ったという。これを聞いた阿久比(英比)郷の始祖・阿佐比古が、開囓神を祀ったのが創始とする。

 現地案内板では、顕宗天皇2年1月1日に阿佐比古が創建し、延喜20年には、この地に土着した菅原道真公の孫(長男・高規の子)・英比麿(雅規)によって社殿が造営されたとする。

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■阿久比神社(現地案内板)
 阿久比神社は、延長5年(927)『延喜式巻9』神名帳に知多三座の一つとして記され、貞治3年(1364)『尾張国神名帳』には「従二位上英比(あくい)天神」と記されている。
 社伝によれば、第23代顕宗天皇2年に、「開囓神(あきくいのかみ)」を祭り、創建されたと言われ、大化4年(648)に「猿田彦大神・天津彦命・瓊瓊杵尊」を合祀した。その後、天平神護元年(765)「八幡大神・田心姫命・湍津姫命・市杵島姫命」を合祀した。
 延喜20年(920)英比丸(麿)が社殿を造営し、60間四方の社地を寄進した。没後、天徳3年(959)「英比丸命」として合祀された。長暦4年(1040)に拝殿が建立された。拝殿は幾度かの改築を繰り返し、平成9年度に現在の拝殿が完成された。
 阿久比神社は、俗称、尾張知多の「一宮」と呼ばれているが、これは式内社として知多三座の初めにあげられているからである。明治9年(1876)に「郷社」、明治40年(1907)10月に「神餞幣帛料供進指定神社」となった。
                        阿久比町教育委員会

※「猿田彦大神・天津彦命・瓊瓊杵尊」を合祀とあるが、「猿田彦命、天津彦々火瓊瓊杵尊」の誤りだという。
 それにしても、横書きの由緒書は珍しい。

 御祭神は、伊弉諾神が、黄泉国からの脱出の時に、投げた袴から生まれた神で、『古事記』では道俣神(ちまたのかみ)として、道に関する神とするが、『日本書紀』では開囓神(あきぐいのかみ)とする。一方、『古事記』では、黄泉国脱出後の禊祓の時に、冠から生まれた神を飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ)としている。

◆北原天満宮(知多郡阿久比町白沢)
・菅原道真の孫・雅規(幼名:英比麿)の住居跡に建立された神社

北原天満宮
 北原天満宮の社伝によると、天暦9年(955)旧暦の正月25日、英比の土豪 菅原雅規公(幼名英比麿)は延喜3年(903)太宰府で没した祖父菅原道真公を祭神として、英比麿と呼ばれていたころの住居跡に、神社を建てたと伝えられている。
 明治5年(1872)明治政府は、社寺合併の方針を全国の県に布告したが、北原天満宮は、白沢地内にあった他の5社より2年遅れて、明治11年(1878)6月白沢字北根の八幡社に移され合祀された。しかし、天満宮を1日も早く元の場所でお祭りしたいとの願いは、村民の間にいつまでも残っていた。
 昭和8年(1933)現境内の南西隅に、本殿跡地であったとの石碑や筆塚・牛像などを設置し、跡地の保存に努めたのも、その心情の表れであった。
昭和63年(1988)10月2日、整備拡大された跡地に、現在の社殿を建立し、遷座の式が挙行された。かねてからの願望がかなえられた地域の人たちの喜びと、学問の神を敬慕する心は、境内にある数々の寄進物などからも伺い知ることができる。また、植えられている梅の木々の中には、菅原家の後裔、久松家・松平家の子孫や道真公の側近であった味酒家の子孫の手植えのものもある。
                         阿久比町教育委員会

◆権現山五郷社(知多郡阿久比町植大森後)
・阿久比神社の元社で、実は式内・阿久比神社?

五郷社
 五郷社は、「素盞嗚命」が祭神となっている。創建年代は明らかではないが、 天徳2年(958)に菅原道真公の子孫が祀ったといわれ、寛永16年5月(1639)に造営したと伝えられており、昔から地元の人々は、「権現さん」と呼び親しまれている。
 五郷社の名称の起こりは、英比谷に5つの郷が開かれた時に、植村もその一つであったという伝承に基づいており、明治5年(1872)に神社調査の届出に記載された時からといわれている。それ以前は「権現社」といわれていた。
 この辺りは「権現山」と呼ばれ、童話作家の新美南吉の代表作の1つである『ごんぎつね』の背景となっている。自然に恵まれた地域で、昭和59年(1984)に五郷社境内は「植公園」となり、人々の憩いの場となっている。
                        阿久比町教育委員会

■羽豆神社

■羽豆神社(現地案内板)

  羽豆神社社伝
祭神 建稲種命「尾張氏の祖神」
神位 従一位羽豆名神「尾張国神名帳」
由緒 創立白鳳年中
一.熱田大宮司摂津守親昌、その猶子昌能羽豆崎に城を築く神社修復(1331-1355)
一.宗長親王御奉幣(1370)
一.尾張徳川家累代ご参詣
  東照神君直義公頼宣公光友公義誠公吉通公
一.明治5年郷社に列する
一.延喜式内名神
宝物 県指定文化財
 心阿彌陀経一巻 妙法蓮華教八巻
 応永15年(1408)一色道範奉施
例祭 旧8月14・15日
   大名行列山車五台神輿行列
                      宮司間瀬家35代正道

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 羽豆神社がある羽豆岬は、SKE48の聖地。

 御祭神の建稲種命は日本武尊東征軍の副将軍である。
 帰路、駿河湾沖で溺れ死に、着衣の袖が羽豆岬に漂着したという。
 ──なぜ羽豆岬に漂着?
 それは、羽豆岬に夫の帰りを待つ玉姫命(大荒田命の娘)が住んでいたからで、「せめて袖だけでも妻のもとへ」という執念が送り届けたという。
 玉姫命が夫の帰りを待ち続けていた場所は「待合浦」と呼ばれ、玉姫命を祀る小祠が建てられている。

※参考記事:「建稲種と子供たち」
https://note.com/sz2020/n/n469096965bc7

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羽豆岬(師崎)の歌碑

宗長親王
  山路よりけふはいそへのさとにきてうらめつらしきたひころもかな

SKE48「羽豆岬」記念歌碑

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 羽豆崎城があった。

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 以上、知多半島の式内社巡りでした。

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