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建稲種と子供たち ー幡頭神社、蘇美天神社、志葉津神社ー

 三河国(西三河)を代表する大河──矢作川。その中流に岡崎平野が広がり、右岸(西側。尾張国側)を「碧海(おうみ)郡」、左岸(東側。遠江国側)を「額田(ぬかた)郡」といい、上流の山間部を「賀茂(かも)郡」、下流の海岸部を「幡豆(はず)郡」という。

 「はず」の正しい表記は「波津」であろう。その幡豆郡には「磯泊郷」がある。「いそどまりのさと」と読みたくなるが、『和名類聚抄』には「しはと(之波止)」と訓がふられている。「しはと」は「志泊」で、「素晴らしい波止場」の意であろう。(たとえば、「志都呂」「志登呂」は、「し」(美称)+「泥」で、「素晴らしい泥(陶土)」という意味だという。)

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★『和名類聚抄』

「しはつ」で思い出すのは、高市黒人の万葉歌(羇旅の歌)である。

〽桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた)潮干にけらし鶴鳴き渡る(巻3-271番歌)
〽四極山(しはつやま)打ち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島榜ぎ隠る棚無し小舟(巻3-272番歌)

 尾張国の年魚市潟(あゆちがた)は、愛知郡、ひいては愛知県の語源となった場所で、熱田神宮周辺である。「鶴」(白鳥)とは、ヤマトタケルのことであろう。歌意は「桜田(愛知県名古屋市南区元桜田町)の方へ、ヤマトタケルゆかりの霊鳥・鶴が鳴きながら渡ってゆく。熱田の年魚市潟は潮が引いたらしく、鶴(ヤマトタケル)が干潟の上を鳴きながら渡ってゆく」である。
 そして、次に掲載されている歌に登場するのが三河国の四極山(しはつやま)である。歌意は「磯泊山(西尾市吉良町津平の南方。三ヶ峯(現在の三ヶ根)の西のピークが4つある連山)越しに見れば、沖の梶島の島影に漕ぎ隠れてゆく棚板のない小さな丸木舟よ」である。

渡辺政香『磯歯津山考』
 おのれ若き頃礒歯津山にのぼり海を見るに笠の形したる嶋あり。同国渥美郡に属せり。此傍りを「老津嶋童部の浦」と云。薪こる翁に「彼嶋と此矢間の名はいかに」と問へば、「嶋は笠嶋、山は歯津山」と答へり。「歯津といふによしありや」と打返して問へば、「古は礒歯津山と云しを上を省きて歯津山と呼ぶ」よし答へたり。彼の嶋をめぐる小船は、『万葉集』高市連黒人羈旅歌に、「しはつ山 うちこえみれば かさぬひの 嶋こきかくる たなゝしをふね」とよめる景色目前にあれば、ふと餘材抄契沖法師の説「礒泊山は三河なり」とありしを思ひ出して、ほとりなる「角平」の里(「津の平」とも書り)志波津の神社にまいつるに、山の木立、神さびて、いとふるき土地なれば、『和名抄』に「礒泊の郷」といへるはなへて此ほとりをいゝけむ。「礒歯津の郷」にある山なれば、「礒歯津山」といふはむべなり。「笠嶋」も古は「笠縫嶋」といゝしを、後の世に略して二字に約めて呼ふ例外にもあまたあれば、一字中略せるか。

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★万葉歌碑

 「しはと(志波津)」(素晴らしい津)の「つのひら(角平、津の平)」(津の平坦部)には、「志葉都神社」(旧・柴戸の宮)がある。以前は社前まで船で行けたという。志葉都神社のご祭神は、「ヤマトタケルの東征」で副将軍を務めた建稲種(たけいなだね)の次男・建津牧(たけつのひら)である。建稲種の妹がヤマトタケル妃の宮簀媛(みやずひめ)であり、「ヤマトタケルも、建稲種も、宮簀媛も若い」と思っていたが、ヤマトタケルにも建稲種にも妻子がいて、建稲種の長男・建蘇美、次男・建津牧は、「ヤマトタケルの東征」に参加して、戦功をあげたというから、息子たちは子供ではない。大人である。とすると、建稲種は若くはない。妹の宮簀媛が草薙剣を祀った元熱田・氷川姉子神社の「姉子」は「年取った未婚の女性」の意であるから、宮簀媛も若くはなかったと思われる。

──そういえば、建稲種を祀る神社や、子の建蘇美と建津牧兄弟を祀る神社が近くにあったな。

まとめておこう。

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