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豊田佐吉は三浦一族の佐原佐吉です。

寅年から卯年へ。

佐吉のふるさと銘菓 くるまもなか

1.『万葉集』の「志留波の磯」は「正太寺鼻の磯」


『万葉集』に「志留波(しるは)の磯」が出てくる。
万葉学者は、その場所が分からず、「白羽(しろわ)」のことではないかと言うが、白羽は磯ではなく、砂浜である。万葉学者が気付いていないだけで、どう考えても、「正太寺鼻の磯」である。正太寺鼻の現在の住所は、「しるは」ではなく、静岡県湖西市入出(いりで)である。万葉時代は「しるは」と言い、「知波」と書いたことから、「ちば」と読まれるようになったようだ。
「知波」の範囲は広いので、
大知波(おおちば)・合平(あいのひら)・小知波
に分けたが、小知波の人が「小知波とは失礼だ」として、現在は、
大知波(おおちば)・大知波の青平地区・太田(おおた)
になっている。

知波の産土社・大神山八幡宮(静岡県湖西市大知波)の氏子場:遠江国浜名郡は北部の中之郷(旧・郡衙所在地。現在の三ケ日)と南部の中之郷(郡衙所在地。現在の新居町中之郷)と橋本宿(後に新居宿)が発展していた。両者の間の中央部は、全て大神山八幡宮の氏子場であり、「知波」である。また、郷土史家の中には、中央部を『和名類聚抄』「遠江国浜名郡」の「大神郷」とされる方もおられる。

2.正太寺鼻の宇津山城


戦国時代、正太寺鼻には宇津山(渦山)城があった。城主が地名を聞くと、
落波(おーちば)
と答えたので「「落」は落城に繋がる。縁起が悪い」とし、港に舟が出入りして活気がある事から「入出」と改名したという。
とはいえ、宇津山城は、徳川家康軍酒井隊に落とされ、城兵の豊田氏は帰農して間平の庄屋となった。遠江侵攻に成功した徳川家康は、浜松城を築いた。石垣の石には舘山と大知波の石が使われた。大知波での採石には、合平の豊田氏が尽力したという。この豊田本家の分家が、山口に3軒あった。そのうちの1軒が、老婆のみで絶家になるところを、佐原伊吉(三浦義明の七男・佐原義連の子孫)が養子・豊田伊吉となって豊田家を継いだ。この豊田伊吉の子が豊田佐吉である。もし、父親が豊田家の養子にならなければ、トヨタ自動車は、サハラ自動車であり、愛知県豊田市も、愛知県佐原市になっていたのである。

参考記事

※参考図書
・湖西市『湖西の生んだ偉人 豊田佐吉』:資料集
・邦光史郎『トヨタ王国 天馬無限』(集英社):小説

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