見出し画像

築山殿と武田勝頼の手紙

「築山殿謀反の誓書」①
三郎信康は我が子なれば、如何にしても説き付け、武田方の昧方とせん。徳川、織田の二将は妾(わらは)に計あり。必らず倒すべし。此のこと成就せば、家康の旧領はそのまま信康に賜わりたし、又、妾をば、君か被官の然るべき者の妻とし給え。此の事業に肯諾を得ば、速やかに誓書を賜わるべし。妾も速に計る所あるべし。

「築山殿謀反の誓書」②
信康は我子なれば、いかにも説き付け、武田方の昧方とせん。徳川、織田の両将は、わらは計らふ手立て候得ば、かまへて失ひ申すべし。此の事成就せむに於ては、徳川の旧領は其の儘信康に賜はりなむ。又、わらは事は、御被官の内にて、さりぬべき人の妻となし給ふべき。此の願ひ事、かなへ給はば、かたき御請文を賜はるべし。今より信康を教訓し、御味方につけ申すべき也。
https://dl.ndl.go.jp/pid/992561/1/78

築山殿が武田勝頼へ出した手紙の要旨は、
①息子・信康は、これから武田方に寝返らせる。
②織田信長と徳川家康を倒す策がある。
③織田信長と徳川家康を倒したら、徳川遺領は信康に。
④織田信長と徳川家康を倒したら、私を武田家臣の妻に。
⑤③と④の誓約書を書いて欲しい。
である。

②織田信長と徳川家康を倒す策とはどんなものか知りたいものである。
 2人を築山御前屋敷に招待して毒茶を飲ませる?
④築山殿はアラフォーだと思われる。再婚しても子は生めないであろう。

武田勝頼から誓約書(起請文)が届いた。

■「武田勝頼起請文」
今度減敬に被仰越神妙に覚へ候。何共して息三郎殿を勝頼が味方に申勤玉ひ、謀を相搆る信長と家康を討亡し玉ふに於ては、家康の所領は不及申、信長の所領の内、何成共望みに任せて一ヶ國、新恩として可進(まいらすべし)。次に築山殿をば幸に郡内の小山田左兵衛と申大身の侍、去年妻女を亡し、獨居にて候へば、渠が妻女となし可進や。信康同心の御一左右(ごいっそう)の候はば、築山殿をば先達て甲州へ迎取まいらせ申べし。
右の趣、少も相違するに於ては、梵大帝釈四大王惣而日本六十餘州大小の神祇別て伊豆箱根両所権現三島大明神八幡大神宮天満大自在天神の神罰各可相蒙者也。仍て起請文如件。
   天正六年十一月十六日        勝領(血判)
     築山殿

③織田信長と徳川家康を倒したら、信康に徳川遺領はもちろん織田遺領の中から好きな国を1国あげる。
④織田信長と徳川家康を倒したら、築山殿を昨年妻を亡くした「武田二十四将」の一人、小山田左兵衛尉信茂(同世代のアラフォー)の妻にする。


 この手紙のやり取りは、築山殿の死後、築山殿の文箱からこれらの手紙が出てきて発覚した。学者は「すぐに見つかる場所に、こんな重要な手紙を置くはずがない。偽文書である。さらに言えば、築山殿謀反の誓書①と②では内容が同じでも別人が書いたようであるし、武田勝頼の手紙の文体は当時のものではない。というか、この話自体が創作である」とし、小説家は「すぐに徳川家康に見つかる場所に置いた。全ての罪を自分1人で負うために。信康を救うために」とする。

 なお、これらの手紙は、減慶(滅敬)という唐人医師が運んだという。この後、減慶は、双方(築山殿と武田勝頼)から多額の報酬をもらうと、姿を消したという。

 徳川家康は、築山殿の文箱から見つかったこれらの手紙と築山殿の首を持って安土城へ行き、織田信長に「武田との内通は築山殿がたった1人でやったことであり、信康は無関係であることが分かった」として信康の無実を弁明すると、織田信長は、徳川家康に、
「そこまで申すのなら、徳川殿のお好きになさるが良い」
と言った。「好きにしろ」とは、「信康を殺さなくても良い」という選択も含むと考えた徳川家康は喜ぶが、さらに、
「その代わり、余も好きにするがな」
と念押しされて、徳川家康は「信康を殺さざるを得ない」と諦めたという。築山殿の命がけの作戦は魔王には通じなかったのである。

 以上、「武田への内通を疑われた信康を助けるため、築山殿は偽文書を作り、全ての罪をかぶって死んだ」という筋書きであり、徳川家康は、築山殿の遺志を汲み、「武田と内通していたのは築山殿で、信康は内通していない」と織田信長に主張したが、通用しなかったのである。


天正7年(1579年)7月16日 徳川家康、織田信長に馬を献上。
天正7年(1579年)8月29日 築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日 松平信康、自害す。享年21。

『信長公記』(巻12)の天正7年8月29日~9月15日の記事には、築山殿の死に関する記述もなければ、徳川家康が築山殿の首を持ってきた記述も載せられていない。ただ、7月16日、徳川家康の代理で、酒井忠次が織田信長に馬を献上した(酒井忠次と奥平信昌も個人的に献馬した)話は掲載されている。

7月16日 家康公より酒井左衛門尉御使として、御馬被進之。奥平九八郎、坂井左衛門尉、両人も御馬進上也。

https://dl.ndl.go.jp/pid/781194/1/9

 この時、織田信長は、五徳から送られてきた「12ヶ条の訴状」の内容を酒井忠次に糺すと、反論しなかったので、織田信長は、徳川家康に信康の切腹を要求したという。

 八月五日、岡崎三郎信康主(家康公一男)令牢人給ふ。 是、信長之雖為聟、父家康公の命を常違背し、信長公をも 被奉軽、被官以下に無情被行非道間如此。
 此旨を、去月、酒井左衛門尉を以、信長へ被得内證所、 「左様に父、臣下に被見限ぬる上は、不及是非、家康存分次第」之由有返答。

『当代記』

 8月5日、信康(徳川家康の長男)は浪人にさせられた。これは、(信康は)織田信長の娘婿であったが、徳川家康の命令に常に背くは、織田信長をも軽んじるは、家臣には情けをかけないで非道を尽くしていたからの処置である。
 この事を、先月(7月16日)酒井忠次を通して(信康の義父の)織田信長に伝えると、「そのように父や家臣に見限られた上は、是非に及ばず、徳川家康の好きにするが良い」と言われた。

──徳川家康はどう思っていたのか?

 8月8日に、徳川家康が、織田信長の近習・堀秀政に出した書状には次のようにある。

今度、左衛門尉を以申上候處、種〃御懇之儀、其段御取成故候。忝意存候、仍、三郎、不覚悟付而、去四日岡崎を追出申候。猶其趣、小栗大六、成瀬藤八可申入候。恐々謹言。
  八月八日   家康(判)
   堀久太郎殿

(今度、酒井忠次を以って申し上げ候処、種々御懇(ねんごろ)の儀、其の段、御取り成(おとりなし)故に候。忝く意(おも)い存じ候。仍て、三郎信康、不覚悟に付て、去る四日、岡崎を追ひ出し申し候。猶、其の趣、小栗重常、成瀬藤八郎国次、申し入れるべき候。恐れ、恐れ謹言す。)

 今回、私(徳川家康)が、酒井忠次を使者として、織田信長へ派遣した時の織田信長の様々なお心遣いは、その時のあなた様(堀秀政)のお取り成しの成果であり、忝(かたじけな)く思います。それで、松平信康は覚悟が出来ていなかったので、先日(8月4日)、岡崎城から追い出し、大浜城に蟄居させました。なお、事の詳細は、この書状を持って行く小栗重常と成瀬国次が申し上げます。

「三郎信康、不覚悟に付きて」の「不覚悟」の意味については、
①「不覚悟=覚悟ができていないこと=切腹したくない説」:信康は、切腹する覚悟ができていなかったので(「なぜ自分が切腹しなければいけないのか分からない」と言っているので)
②「不覚悟=油断して失敗を招くこと=逆心説」:信康は、政情を正しく判断できず、武田勝頼につくという逆心(ミス)をしたので)
③「不覚悟=不届き=不心得=逆心説」:信康は、不届きにも織田信長についていく覚悟ができていなかったので(「織田信長についていたらだめで、武田勝頼につくべきだ」と逆心したので)
の3つの解釈があります。

※「ふかくご(不覚悟)/ぶかくご(無覚悟)」の辞書的意味
①覚悟ができていないこと。
②油断して失敗を招くこと。不覚。
・不届き、不心得等の語意(語義)は載っていなかった。

 「不覚悟」の意味を「逆心」とする学者がおられますが、辞書的にはきついかと。「不覚悟」とは「切腹する覚悟が出来ていない事」だと思います。築山殿の殺害の理由は不明とされています。学者に言わせれば、「女性の場合は蟄居や出家ですませられる。殺すことはないので、なぜ殺したのか不明」だそうです。私は「信康に切腹の覚悟させるために殺した」のだと思っています。『どうする家康』の信康は「母が逃げたら私も逃げる」とし、母が死んだことを知って切腹していました。「私の考えに近い」と思いました。学者の中には『どうする家康』の徳川家康のように「信康に逃げて欲しいと思っていた」とお考えの方がおられますが、信康を逃がしたら、逃がした人は切腹ですけど。そんな迷惑を信康がかけるはずはないと思いたい。そこまで馬鹿じゃないと。

ドラマでは、瀬名も、五徳も覚醒した。次は信康が覚醒する番だ!
(と応援したいところだが、PTSD。)

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。