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本能寺で織田信長を刺したのは誰だ?

■関屋政春『乙夜之書物』
信長公、白き御帷子をめし、みだれがみにて出させたまい、御弓にて庭の敵をさし取引つめ射たまう。御弓のつるきれたりと見ゑて、御弓をなげすてたまい、十文字の鑓を取て、せり合たまう。然所に御手を負はれたりと見ゑて、白き御帷子に血かかって見ゆる。御鑓、御すて、奥ゑ御入、ほどなく奥の方より焼出たり。
【現代語訳】織田信長は、白い帷子を着て、乱れ髪のまま出てきて、弓で庭の敵を指し取り、引き詰めて矢を射た。弓の弦が切れたようで、弓を投げ捨て、十文字鑓を手に取って戦った。こうした時に怪我をしたようで、白い帷子に血がかかったように見えた。鑓を捨て、奥へ入り、程なく奥の方から出火した。
太田牛一『信長公記』
 信長公、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし候へば、何れも時刻到来候て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し候を、
「女はくるしからず、急ぎ罷り出でよ」
と、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来たり候。
 お姿をお見せあるまじきとおぼしめし候か、殿中奥深く入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ、
【現代語訳】織田信長は、最初のうちは弓を手に取ったが、2つ、3つと弓を取り替えて射った。というのも、どの弓も、射ているうちに弦が切れてしまったからである。その後、鎗で戦ったが、肘に鎗疵を受けて退き、これまで側に女房衆が付き添っていたが、
「女はもうよい。逃げろ」
と言って追い出した。
 既に御殿には火がかけられ、近くまで燃えてきた。
 最期の姿を見せたくないと思ったのか、御殿の奥深くに入り、内側から納戸の戸を閉めて、無念にも切腹した。

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 織田信長は、最初は弓で攻撃したが、弦が切れて使い物にならなくなったので、槍を使った。この時、織田信長は、左肘に槍を受けると観念し、御殿に入り、火を付けると、切腹したという。

 ──織田信長の左肘を刺したのは誰か?

 上の楊斎延一画『本能寺焼討之図』には、安田作兵衛とある。

神沢杜口 『翁草』(巻33)「天野源右衛門之事」
 本能寺にて信長公御生害の時、塀重門より御座の間の大庭へ乱れ入り候は明智が家士・箕浦大蔵丞、古川九兵衛、安田作兵衛なり。信長公は、白き単物を召し、始めは弓にて防ぎ玉ひしが、弦切れたる故、鎗を召されしに、地紅の帷子著たる年27、8計の女中、十文字の鎗の鞘をはづし持ち來る。夫れを御取り有りて広庭へ飛び下り給ひ、三人の者と鎗にて暫く御迫合ひ、そこを引き取り、座敷へ入らせ給ふに、未だ座敷には燭臺消え残り、其の燈の光に信長公の影、障子に映りけるを、安田作兵衛、穂長の鎗にて障子越に突く。其の鎗、信長公の右の脇腹を刺して深疵なれば叶はせられず、寝殿に入りて自害し玉ふ。
【現代語訳】いち早く本能寺に入ったのは、「明智三羽烏」と呼ばれる安田国継、箕浦豊茂、古川兼友の3人である。織田信長は、白い帷子を着て、最初は弓で防戦していたが、弦が切れたので、「槍を持ってこい」と言うと、27か28歳位の女房衆が十字槍を鞘を外して持ってきたので、その十文字鑓を手に取り、庭へ降りて戦った。しばらく「明智三羽烏」と戦ったが、座敷に入った。障子に織田信長の影が映ったので、安田国継が穂の長い槍で突くと、織田信長の右の脇腹に刺さった。それで織田信長は観念し、寝殿に入って自害した。

★織田信長を刺した槍(穂の長さ21.8cm、全長3.35m)/ 唐津城
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/629429

 この安田作兵衛について、『美濃国諸家系譜』には次のようにある。

国継 安田作兵衛、童名・乙千代。天文13年生。
母は寺沢越中守広正妹也。国継、実は山岸勘ヶ由左衛門貞秀の末子也。
永禄元年の頃、安田利国に聟養子と成り、彼の家名を相続す。
同11年戊辰8月、始め明智光秀に仕へ、追々立身して四天王と称せられ、近江国高島郡田中に於いて1万石を領す。大力量無双。身の長(たけ)6尺2寸。早業(はやわざ)飛行の達人也。
天正10年壬午6月2日、京都本能寺に於いて、信長を突き止め、森蘭丸を討つ。
我姓名を隠し、平野源左衛門と名乗る。所縁有るに依り、寺沢志摩守広高に仕ふ。肥前国唐津に住む。主家、広高の所領10分1の知行を領す。
慶長3年戊戌6月14日、故主・日向守の17回忌に当たり、旧恩の為に追腹す。年55歳。
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/200/2075/796/1/0810?m=limit&n=20

明智光宜┬光継─光綱─光秀
    └山岸光貞(養子)─貞秀┬光信(勝龍寺城で討死)┬貞連(殉死)
                ├安田国継(養子)    └光連(討死)
                └美佐保(明智光綱正室)

・安田国継:安田家へ養子に出された。祖父は、明智光秀の祖父の弟。
・山岸貞連:明智光秀の近習。小栗栖で明智光秀と共に切腹。
      ・小栗栖で殉死したのは、他に開田武章、堀直家など。
      ・小栗栖で切腹したのは、明智光秀の影武者・荒木行信とも。
・山岸光連:明智光秀の近習。「山崎合戦」で討死。

 安田国継安田作兵衛。山崎合戦後、正体を隠すために改名して天野源右衛門貞成。晩年に平野源左衛門に改名)は、大男で力持ちの豪傑──身長は6尺2寸(235.6cm)とある。

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『太平記英勇伝』「安田作兵衛国次」
光秀中国援兵と号して本国を出陣し、洛桂川の辺に至り、作兵衛国次をして謂わしむるやう「吾敵は本能寺に宥り。安危唯一挙なるぞ。銘々勉めて是に死せよ」。兵卒、始めて其の逆なるを知る。己(すで)にして本能寺に乱入為すと斉一(ひとしく)国次、右府に迫らんとせしを蘭丸さゝへて決戦し、竟(つい)に蘭丸を討つといへども陰茎(いんきょう)かけて太股(ふともも)をしたゝかに突きなされ、疵、癒へざえるをもて、山崎の戦場に出(い)であらば、後、寺沢広高に仕えて禄千石領せしかども彼の疵、再び破れて立居自在をえず、「恁(か)くては馬前の高名做しがたし」とみづから鉄炮にて死すといへり。或は秀長につかへて天野源右衛門と改名せしともいふ。
【大意】明智光秀は「毛利攻めをしている羽柴秀吉の援軍として、中国地方に向かう」と嘘の号令をかけて本国・丹波国の亀山城から出陣し、京の桂川の川辺で休憩している時に、安田作兵衛国継に「吾が敵は本能寺にあり」と言って回らせた。この時、兵士は、初めて明智光秀の逆心を知った。
 安田作兵衛国継は、本能寺に一番に乗り込み、右府・織田信長に迫ったが、森蘭丸に阻まれた。見事、森蘭丸を討ち取ったが、陰茎から太腿にかけて槍で刺されてしまった。そして、その疵が癒えないまま山崎合戦に参戦し、破れた。
 その後、寺沢広高に仕えて1000石を領したが、再び傷口が破れて立つことすらままならなくなり、「これでは手柄をたてられない」と鉄砲で自害した。実は自害しないで、天野源右衛門と改名して羽柴秀長に仕えたともいう。

 安田国継は、弘治2年(『美濃国諸家系譜』では天文13年)、美濃国海津郡安田(現在の岐阜県海津市海津町安田)で生まれた。斎藤利三に仕えたが、斎藤利三が主君を明智光秀に変えたので、「本能寺の変」に参加することになった。
 槍の達人で、「本能寺の変」では先鋒を務め、織田信長を槍で刺し、行く手を阻んだ森蘭丸に十文字槍で股間を突かれるも討ち取った。

 その後、明智光秀や斎藤利三が亡くなると、「天野源右衛門」と名を変えて牢人(一説にフリーランスの「傭兵」)となり、羽柴秀勝、羽柴秀長、蒲生氏郷、立花宗茂(柳川)に仕えたが、プライドが高く、腕力を自慢するので嫌われ、いずれも長続きしなかった。

 ──自分は優秀なのに、主君に恵まねぬ。

 最後は、徳川家康の家臣となっていた旧友の唐津城主・寺沢広高(唐津)に「所縁有るに依り」(安田国継の母は寺沢広正の妹なので)仕え、8000石を領した。
 晩年は「平野源左衛門」と名乗ったという。(平野家は安田家の分家。)

安田国継の死

①慶長2年(1597年)6月2日に自害。享年42。頬の出来物の悪化を苦にしての自害という。自害した日は織田信長の命日であり、「織田信長を刺した祟りだ」と噂された。(『柳川史話』)

『翁草』
頬に腫れ物出て、癒えぬ瘡の中より肉、舞い出るを、琴の糸にて締め上げ、竹縁に結び付け、足にて踏みたれば、大ひに鳴りて肉、抜けたり。「是にて癒ゆべし」と悦ぶ処に、又、元の如く肉、出る。3度迄抜けたれども、跡より元の如く成れば、4度目には急いて自害したり。「信長公程の大将を弑せし其の業報ならん」と下々は沙汰せしなり。

②慶長3年(1598年)6月14日に自害。享年55。故主(死んだ主君)・明智光秀に追腹(おいばら。殉死)を禁止されたが、明智光秀の享年と同じ55歳になった年の明智光秀の命日(6月13日の17回忌)の次の日に、禁を破って追腹した。(『美濃国諸家系譜』)

③「本能寺の変」で森蘭丸に受けた傷口が開いて立つことも不自由になったので、「これでは戦えない」と鉄砲で自害した。(『太平記英勇伝』)

★熊本の三宅氏(明智光秀の子孫)

 豊臣秀次に仕官した時、「城の普請のため、家来を引き連れてくるように」と命じられると、「自分には戦で戦う家来はいるが、土木工事をするような家来はいない」と反発し、即刻、出奔したそうです。
 一説に、女好きで知られる豊臣秀次が、安田国継に娘を差し出すよう命じたので、出奔したそうです。なぜなら、その娘は養女で、実は明智光秀の娘だったからだそうです。

 また、明智光秀と側室(三宅藤兵衛綱朝の娘)の子・秀寿丸(天正9年12月2日、坂本城で誕生)は、坂本城の落城時に、乳母に抱かれて坂本城から脱出し、その後、さすがに「明智」とは名乗れず、母方の名字「三宅」を使って三宅藤兵衛重利と名乗りました。安田国継が後見して、共に肥後国唐津に移ると、三宅藤兵衛重利は、唐津寺沢家(寺沢堅高)の重臣となり、天草郡代になるも、寛永14年(1637)10月の「天草一揆」で戦死し、墓は天草にあります。
 彼(島原三宅家)の子孫は、細川氏に仕えて肥後国熊本に移り住み、現在の「熊本三宅家」となっています。ただ、その熊本三宅家では、「三宅藤兵衛重利は、明智左馬助と明智光秀の娘・岸の嫡男」だと伝えられています。明智左馬助=三宅弥平次であれば分かりますが、明智左馬助≠三宅弥平次であれば、「三宅」名字を名乗った理由が不明となり、「三宅藤兵衛重利は、明智光秀と側室(三宅藤兵衛綱朝の娘)の子」と考えた方がよろしいかと。(明智家は土岐家の分家で、源氏であり、藤原氏のように名前に「藤」を使うことは考えられない。)
【熊本三宅氏系図】
始祖・三宅左馬介光昌-藤兵衛重則-藤右衛門重元-藤兵衛=藤兵衛重経
(三宅左馬介光昌=明智左馬助=三宅弥平次、藤兵衛重則=藤兵衛重利)
参考:三宅家史料刊行会『明智一族 三宅家の史料』(清文堂出版)2015

『安田作兵衛 : 朝鮮軍記』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/891011
■村上浪六『安田作兵衛』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888512

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