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東京国立博物館所蔵「石田正宗」

 豊臣秀吉の死後、石田三成ら五奉行が政治を担当していたが、石田三成を恨む者もいた。その者たちをなだめていた五大老の前田利家が亡くなると、早速、7人の武将たちが石田三成を襲った(「七将襲撃」)。五大老の徳川家康が仲介し、「石田三成の佐和山蟄居」で事を収めた(石田三成の失脚)。
 徳川家康は、たまたまいた次男・結城秀康(旧・羽柴秀康)を、佐和山までの護衛につけた。瀬田に至ると、石田三成の家臣3000名が迎えに来ており、石田三成は、「ここからは我が領内であるので心配ご無用」として、結城秀康に「石田正宗」を贈り、帰したという。(「石田正宗」は、豊臣秀吉が石田三成に贈った名刀だというが、『享保名物帳』には、宇喜多秀家が毛利若狭守から400貫で買い求め、石田三成に贈った名刀だとある。)
 以後、津山松平家に代々伝えられた。

石田正宗 磨上長二尺二寸二分 無代 松平越後守殿
毛利若狭守殿所持なり。浮田中納言秀家卿、代四百貫にて召上られ、石田治部少輔へ遣はさる。治部少、太閤御他界後、大名に憎まれ、存命難成様子なり。家康公御、哀憐により、無恙され共、其分にて差置難き故、居城江州澤山へ蟄居せしむ。于時、慶長五年子三月。道すがら、結城中納言秀康卿に中村式部、堀尾帯刀両人を御差添、城中まで慥(たしか)に送り候様仰渡、勢田迄御越の刻、治部下馬致され、良久く秀康卿と御物語、家康公、御心入難有奉存候迚(とて)落涙仕り、偖(さて)、是よりは拙者領内に候へば、御三人共御帰り被下候様、再三被申候。右の刀を秀康卿へ進し候御伝来なり。

『享保名物帳』

 現在は、重要文化財「刀無銘正宗(名物石田正宗)」として東京国立博物館に所蔵されている。


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