第24回「築山へ集え!」(復習)
【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月 徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日 「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月 「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月 松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月 織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日 掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月 徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日 徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月 徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
→上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月 松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日 お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日 大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月 五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月 五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月 徳川家康、西郷局と結婚
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正7年(1579年)4月7日 西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日 築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日 松平信康、自害す。享年21。
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、自害(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)6月2日 織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日 豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日 徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日 徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日 徳川家康、死没。享年75。
今回はいろんな人が築山御前屋敷に集まってきた。
■築山屋敷の位置
■築山御前屋敷に集まった人々
・滅敬(穴山梅雪)&望月千代:穴山梅雪は、岡崎と甲府を行き来しているように描かれていますが、穴山梅雪は、江尻城(静岡県静岡市清水区)の城代です。今回、武田勝頼の裏切りで面目丸潰れ。これが出奔の原因か?
・今川氏真&早川殿夫妻:今川氏真は、掛川城の開城後、妻・早川殿の実家である北条氏を頼り、小田原の早川に住んでいました。その後、徳川家康を頼り、天正元年(1573年)には浜松に住んでいたことが確認できています。
なお、天正7年(1579年)9月、徳川氏と北条氏は同盟を結んでいます。これは「築山の謀(はかりごと)」の産物でしょうか。
・久松長家&於大夫妻:水野信元の誅殺後、久松長家は、西郡城で隠退し、晩年には、「三河一向一揆」で三河国を追い出された一向宗寺院の三河国への復帰に尽力したそうです。「三河一向一揆」の影響はまだ残っているわけで、これが私の「大岡弥四郎事件三河一向一揆発端説」の傍証の1つになっています。
■「築山の謀(はかりごと)」
「築山の謀」とは、「東国連合国化構想」であった。
・「奪い合うのではなく、与え合う慈愛の国」
(欲しい物を買い(貨幣経済)、特産物を売る(殖産興業)。)
・同じ銭を使い、人々の往来を自由に。
自分の強みを売るというのは、世界を1つの国と考え、生活に必要なAについては、それが得意なB国に作ってもらってB国から輸入するという「国際分業」。いい考えだと思うが、B国で何かあれば、生活に必要なAが手に入らなくなるというデメリットがある。たとえば、コロナ禍で自宅用パソコンの需要が増えたためか、世界規模の半導体不足。頼みの台湾といえば、チップの生産には大量の水が必要なのに深刻な干ばつ───。
そこで、水が豊富で、広大な土地がある北海道に大規模工場を作るというのであるが、完成して、稼動を始めるのはまだ先だ。
※リカードの「比較生産費説」:一国における各商品の生産費の比を他国のそれと比較し、優位の商品を輸出して劣位の商品を輸入すれば双方が利益を得て国際分業が行われるというD.リカードによって提唱された外国貿易および国際分業に関する基礎理論。
東国連合国が成立すれば、織田信長も手を出せないという。
(ヨーロッパが共通通貨を用いるEUになればロシアに対抗可能)
重要なのは、東国連合国が成立するまで、織田信長にばれないことであるが、武田勝頼がばらして、首謀者の築山殿は大ピンチである。武田勝頼は、
「やはりわしはおなごのままごとの如き謀にはのれん。仲良く手を取り合って生き延びるくらいなら、戦い続けて死にたい」
「この世は戦いぞ。戦いこそが我らの生きる道ぞ! 我が夢は、父が成し得なかったことを成すこと。天下を手に入れ、武田信玄を超えることじゃ!」
と言ってばらさせた、首謀者の築山殿は大ピンチである。
【感想】 西郡局の「男では戦をやめられない」という言葉、息子のPTSDの息子を見て築山殿が立った。私なら立たないよ。立ったところで、「立派なお考えだが、おなごが政治に介入すべきではない」と言われて終わり。男にやらせるしかない。私なら夫・徳川家康に提案させる。あるいは、室町幕府は解体して将軍は頼りないので、天皇に立つように頼むよ。
武田勝頼が悲しいのは「我が夢は、父が成し得なかったことを成すこと。天下を手に入れ、武田信玄を超えることじゃ!」と自分で「夢」と言ってる事。個人の「夢」のために戦わされるのは嫌だ。構想(プラン、ビジョン)に欠ける。「天下人になりたい。天下人になって甲府を首都にした甲府幕府を開きたい」と言われたら頑張れる。
一方、徳川家康は、築山殿に「(平和な国にしたいという思いは)あなたにもあった」と言われて回想シーンに入るのであるが、ここで「厭離穢土 欣求浄土」というキーワードが出てこなかったのが残念である。武田勝頼のキーワードが「父親超え」で、毎回語られるように、「厭離穢土 欣求浄土」をもっと前面に押し出した方がいいと思った。
あと、今回、五徳の気持ちが分かってよかった。悪女じゃなかった。
★今後の『どうする家康』
・第25回(後半開始)「はるかに遠い夢」(7/2)
・第26回「武田氏滅亡」(7/9)
・第27回「安土城で明智光秀が接待」(7/16)
・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「
※大河ドラマガイド「どうする家康 後編」は5月31日に発売されました。※ノベライズ3巻は7月25日、4巻は9月発行予定です。