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三河国八名郡の古墳②

前回は、
・文武天皇陵(実は弘文天皇陵?):権現山の緑野神社
・文武天皇の御子・藤親王の墓:賀茂町の「藤王墳」
・文武天皇の御子・竹内親王と12后の墓:正楽寺
・文武天皇の御子・武兒親王と石巻神社
まででした。
https://note.com/sz2020/n/n5ab5f2cb8d63

 さて、三河国で1番偉い人といえば、三河国造です。
 その三河国造の墓は、国衙付近にあります。

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 上の写真の「船山1号墳」(愛知県豊川市八幡町上宿。墳丘長95m。東三河では最大の前方後円墳)が三河国造の墓とされています。三河国造が、複数人いたことは確かで、墓も複数あるはずです。八名郡の前方後円墳は、三河国造の墓だと考えられています。

《三河国造の墓?》
・3世紀の国造の墓? 権現山2号墳  (豊橋市石巻本町別所)
・4世紀の国造の墓? 権現山1号墳  (豊橋市石巻本町北入田)
・5世紀の国造の墓? 狐塚古墳     (豊橋市石巻平野町奥原)
            船山1号墳           (愛知県豊川市八幡町上宿)
・6世紀の国造の墓? 馬越長火塚古墳  (豊橋市石巻本町紺屋)
https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/10527/ikumap02.pdf

◆三河国造:『先代旧事本紀』によれば、西三河に三河国造、東三河に穂国造がいたという(「穂国」は後の「三河国宝飯郡」)。穂国造については、『古事記』には「朝廷別王」(前期穂国造の祖。景行天皇の叔父)、『先代旧事本紀』には「菟上足尼」(後期穂国造の祖)とあり、朝廷別王は多美河津神社、菟上足尼は菟足神社に祀られている。朝廷別王の一族が流行病で絶えたので、新たに菟上氏が派遣されたというが、三河国一宮・砥鹿神社の世襲宮司家・草鹿砥氏は、朝廷別王の後裔だという。
告井幸男「二つの国造」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/3141/1/0030_078_009.pdf
◆権現山古墳
http://www.toyohashi-bihaku.jp/?page_id=590
  
 古墳発掘の欠点は、古墳の形状や副葬品から時期や被葬者の身分は想像できるのですが、文字資料が出土しないので、被葬者の名前や、正確な身分が分からないことです。「文武天皇陵」「弘文天皇陵」という口碑はどこまで信用できるのでしょうか?

♪偲べば懐かし 古代の文字よ(池田充作詞「小樽のひとよ」)
♪かわらぬものは 古代文字(なかにし礼作詞「石狩挽歌」)
◆「挽歌に封印された古代文字の謎」
https://webronza.asahi.com/culture/articles/2019121000002.html

 日本には、上の歌謡曲に登場する「北海道異体文字(アイヌ文字)」(小樽市手宮洞窟の岩絵(古代文字)など)、対馬国の阿比留文字(ハングル文字の原型)などの「神代文字」があったといいますが、「神代文字」は、東三河では穂国造・朝廷別王を祀る多美河津神社の石のみ(「阿志神社」の瓦の神代文字は国学者の創作。江戸時代、国学者を中心に神代文字ブームが起き、菟足神社でもお札を神代文字で書いた)、あとは北遠の「水窪石」くらいで、古墳からは出土していません。
 日本での文字の普及は「仏教公伝」(538年? 552年?)の経典の輸入以降とされていますが、使用はもっと前で、日本で最も古い文字資料は、稲荷山古墳出土の鉄剣に書かれた「辛亥年」(西暦471年)とされていますが、それよりも200~300年前の田和山遺跡から見つかった硯の「子戊」だとも。
 私は、最も古い文字は三角縁神獣鏡の文字だと思いますけどね。三角縁神獣鏡には、「景初四年鏡」(景初四年五月丙午之日陳是作鏡吏人)があります。景初は3年までなので、「景初四年鏡」は、「景初は3年までだと知らない日本人が、景初4年(存在すれば240年)に日本で鋳造した鏡」だと考えられます。つまり、「景初四年…」が日本人が日本国内で最初に書いた現時点での最も古い文字資料なのでは? そもそも、卑弥呼が景初2年(238年)に魏に使者を送った時には親書を書いて持たせただろうし、発給文書には、いただいた「親魏倭王」の印を押したことでしょう。

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