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三河国八名郡の古墳①

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観光マップには、主な古墳である
・狐塚古墳(5世紀のこの地域の首長の前方後円墳)
・二本松古墳群
・神山古墳(賀茂神社の境内)
・勝山1号墳(白山神社の裏山)
馬越長火塚古墳(6世紀のこの地域の首長の前方後円墳)
・宮西古墳
・権現山古墳群(3~4世紀のこの地域の首長の前方後円墳)
しか載せられていませんが、調査では、466基が確認されています。なんとなんと、東三河の中心地とされる宝飯郡の171基の2倍以上!!
https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/10527/ikumap02ura.pdf
この地図のエリア外では「旗頭山尾根古墳群」(野田合戦の徳川家康の本陣跡)や「夜泣石古墳群」が有名です。(「古墳」の古語は「塚」ですが、東三河~西遠では「火穴」、狐が棲んでいれば「狐塚」といいます。)

古文書に見る八名郡の古墳。

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■『三河古墳記(みかわこふんき)』
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/68.html

「一、文武帝之御陵 下條村正楽院に有り」

と、最初から驚かされます。
「右、東夷歿〔攻〕玉ふ時、皇居三年、其藤王子御誕生有り。程無く崩御。是、御墓ならんか。不分明」
とあります。

 松尾芭蕉の門人で、新城市の郷土史家・太田白雪『鳳来寺聞書』(1706年)には、
「聞書 文武天皇東夷そむくにより是を攻めさせ玉はんため当国宝飯郡星野の郷に大和国藤原の都をうつさせ玉ひ既に皇居3年此時鳳来寺への御立願の事ありて公宣卿勅使に立玉ふと云へり」
(文武天皇は、東夷(東国の蝦夷)が朝廷に背いたので、これを攻めるため、三河国宝飯郡星野郷に大和国の藤原京を遷都し、既に皇居(三河星野宮)に3年間滞在しており、この時、鳳来寺へ(東夷征伐成就の?)願い事があって、草鹿砥(藤原)公宣卿(後の三河一宮・砥鹿神社の宮司)を勅使に立てたと聞いた。)
とあります。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0214-30914&IMG_SIZE=&IMG_NO=8

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