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えんえんと柵木岐阜よりかつぎくる

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■織田信長の行動

5月10日 徳川家康から応援要請を受ける。
5月13日 岐阜を発つ。熱田泊。熱田神宮で戦勝祈願。
5月14日 夕方、岡崎城(愛知県岡崎市康生町)着。
5月15日 岡崎城で鳥居強右衛門と話す。
5月16日 牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)に着く。
5月17日 野田原(愛知県新城市豊島)に着く。
5月18日 極楽寺山(愛知県新城市上平井)の極楽寺跡に着陣。
5月19日~20日 設楽原に馬防柵など陣城の築城開始。
5月21日 設楽原の戦い(日の出(午前6時)~未の刻(午後2時)の8時間)
5月22日 古呂水(ころみつ)坂で奥平貞昌を賞賛
5月25日 岐阜凱旋

■『信長公記』(巻8)「三州長篠御合戦の事」
【原文】五月十三日、三州長篠後詰として、信長・同嫡男菅九郎、御馬を出され、其日熱田に御陣を懸けられ、当社八剱宮廃壊正躰なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部又右衛門に仰付けられ候き。五月十四日、岡崎に至つて御着陣。次日御逗留。十六日、牛窪の城御泊。当城御警固として丸毛兵庫頭・福田三河守置かせられ、十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推詰め、志多羅の郷極楽寺山に御陣を居ゑられ、菅九郎新御堂山に御陣取。(中略)五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ(中略)五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。
【大意】天正3年(1575)5月13日、三河国の長篠合戦の後方支援として織田信長は、嫡男・織田菅九郎信忠と共に、援軍を率いて岐阜を出た。その日は熱田に陣を敷いた。織田信長は、熱田神宮の別宮・八剣宮が荒廃している様子を見て、大工頭・岡部又右衛門に再建を命じた。
 5月14日 岡崎に着き、着陣した。次の日は岡崎に留まった。
 5月16日 牛久保城で宿泊。城番として丸毛長照と福田三河守を置いた。
 5月17日 野田原に野陣を張った。
 5月18日 さらに進んで設楽郷の極楽寺山に陣を敷いた。嫡男・織田信忠は、天神山に陣を張った。(中略)5月21日、日の出に(織田軍から)寅卯の方(東北東)へ向けて始まり、未の刻(午後1時~3時頃の2時間)まで続いた。(中略)5月25日、岐阜へ帰還した。

 馬防柵(ばぼうさく)を設ける柵木と縄は現地調達でもよさそうですが、岐阜から持参したそうです。(羽柴秀吉の「一夜城工法」で短時間に陣城を築く工夫。)
 柵木を持って岐阜から歩く・・・重いと思うのですが・・・柵木と鉄砲を一緒に持つことにより、斥候(武田軍の偵察)に鉄砲の数を正確に数えさせないようにした(鉄砲の数が多いことを隠したかった)のだそうです。

■鉄砲3000丁の三段撃ち

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 馬防柵に関しては「鉄砲の三段撃ち」がよく話題になります。
 鉄砲は、弾を込めるのに時間がかかるが、3人1組で替わる替わる撃つことにより、連射を可能にしたという。
 ──そうであろうか?
 3000丁の鉄砲で敵をどんどん殺していけば、戦闘は数分で終わるように思うが、実際は8時間もかかっている。(聞くところによると、鉄砲で何発も撃っていると加熱して、熱くて持てなくなったり、火薬を入れると暴発するという。また、時々分解して屑を取り除かないと使えなくなるという。)

 馬防柵は3重に作ったという。段差をつけた3重の馬防柵からの射撃が「鉄砲の三段撃ち」と呼ばれたのではないか? 「陣城の馬防柵=城の鉄砲を撃つため鉄砲狭間」と考えがちであるが、陣城の馬防柵は弓狭間でもあり、鉄砲の弾を込める間は弓で攻撃したと思う。もちろん、近くの敵は槍で刺せる。

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■織田信長と徳川家康の行動の謎

5月14日 夕方、岡崎城(愛知県岡崎市康生町)着。
5月15日 岡崎城で鳥居強右衛門と話す。
5月16日 牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)に着く。
5月17日 野田原(愛知県新城市豊島)に着く。
5月18日 極楽寺山(愛知県新城市上平井)の極楽寺跡に着陣。
5月19日~20日 設楽原に馬防柵など陣城の築城開始。
5月21日 設楽原の戦い(日の出(午前6時)~未の刻(午後2時)の8時間)


 織田信長は岡崎城を5月15日に出ず、1泊して16日の朝に出たようです。この理由は、
①浜松城から徳川家康が来るのを待っていたから
②岡崎城にいた徳川家康との軍議が長引いたため
の2説があります。

 また、5月16日の早朝に岡崎城を出れば、その日の夕方には設楽原に着くはずですが、牛久保城、野田原と泊まり、18日に着いています。織田軍の歩みが牛のように異常に遅い理由は、
①徳川家康に柵木と縄と鉄砲を用意する時間を与えたから
②決戦の日を先延ばしして、武田軍を苛立たせると共に、食料の消費を狙ったから
③梅雨で雨続きであり、鉄砲が使えなかったので、晴れる日(梅雨明け)を待っていから
④武田軍と戦えば、甚大な被害が出るので、戦う気がなく、移動中に戦いが終わればよいと思っていたから
の4説があります。(④はないな。鉄砲を集め、柵木を岐阜から持ってきたということは、やる気満々だったと思う。)

 徳川家康は、織田信長よりも1日遅く岡崎城を出て、1日早く着いています。岡崎で柵木、縄、鉄砲の調達のために1日出発が遅れ、近道の「戦国街道」(岡崎から真東に進むと野田に着く)を通ったので1日早く着いたのでしょう。(「戦国街道」で徳川家康暗殺未遂事件が起きています。)

※徳川家康の進軍経路については、
①浜松城から岡崎城を経由しないで、直接、設楽原に向かった。(家康浜松在城説)
②5月16日、織田信長は牛久保城、徳川家康は吉祥山の陣にいた。(家康吉祥山在陣説)
がある。

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