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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第10回)「根拠なき自信」


 治承4年(1180年)10月20日の「富士川の戦い」で、平家の追討軍を見事に退けた源頼朝(大泉洋)は、坂東武者の意見を取り入れ、上洛を断念し、10月23日、相模国府(神奈川県平塚市)に於いて新恩給与と本領安堵を行った。(北条義時は江間を与えられ、以後、江間義時と名乗る。)
 10月25日、鎌倉に戻った源頼朝は、10月27日、常陸国へ佐竹征伐に向う。
 佐竹征伐を終えた源頼朝は、11月17日、鎌倉へ戻り、12月12日には仮御所から大倉御所へ移り、鎌倉幕府の前身となる南関東軍事政権を樹立し、「鎌倉殿」と呼ばれた。

1.登場人物集

(1)源頼朝の兄弟

源義朝【死亡】┬長男・義平(母:遠江国橋本宿の白拍子?)【死亡】
       ├次男・朝長(母:典膳大夫中原久経の娘)【死亡】
       ├三男・頼朝(母:熱田大宮司・藤原季範の娘):鎌倉殿
       ├四男・義門(母:?)【死亡(早逝)】
       ├五男・希義(母:熱田大宮司・藤原季範の娘):土佐国
       ├六男・範頼(母:遠江国池田宿の白拍子):蒲御厨→合流
       ├七男・今若→全成(母:常盤御前):醍醐寺→合流
       ├八男・乙若→義円(母:常盤御前):園城寺→源行家に合流
       └九男・牛若→義経(母:常盤御前):鞍馬寺→平泉→合流
  

 源頼朝は源頼政の知行国である伊豆国へ流すことで、常盤御前の3人の子は出家させることで、命は守られた。事態が変わったのは、源頼政が以仁王を擁して挙兵したことであり(「以仁王の変」)、源頼政が自害し、伊豆国の目代が平家方の山木兼隆になると、源頼朝は挙兵し、源頼朝のもとには、七男・全成、九男・義経、六男・範頼、八男・義円がやって来た。(土佐国に流罪となっていた「土佐冠者」こと五男・希義の死亡年月日は不明で、今年(1180年)没とも、2年後の寿永元年(1182年)9月25日没とも。)
 義円は、叔父・源行家が尾張国で挙兵すると参陣し、今(治承4年11月17日)から数ヵ月後の治承5年3月10日、「墨俣川の戦い」において、平家の家人・高橋盛綱に討ち取られた。享年27。
 なお、『吾妻鏡』には義円が源頼朝のもとに赴いたとする記述がないため、「義円は尾張国に入り、源行家と共に行動した」とされるが、『吾妻鏡』が書き漏らしただけで、鎌倉に赴き、源頼朝の命で源行家軍に加わったのかもしれない。

(2)牧宗親


       祇園女御
        ├平清盛─平重盛─平維盛
      平忠盛
        ├平頼盛(池大納言)
藤原宗兼┬宗子(池禅尼)
    └牧宗親┬大岡備前守時親(大岡判官時親)
          └牧の方
                          ├北条遠江左馬助政範【嫡男→16歳で急死】
                          ├嫡女(平賀朝雅室)
        北条時政

 牧宗親(藤原宗親、大岡宗親、大舎人允宗親)については、『吾妻鏡』「建久2年11月12日条」に「北條殿室家自京都下向給。兄弟武者所宗親、外甥越後介高成等被相伴云々」(北條殿室家(北条時政の3人目の妻・牧の方)が京都から鎌倉へ来た。兄弟の武者所宗親と牧の方の甥にあたる越後介高成らを伴っていたという)とあることから、「牧宗親=武者所宗親=牧の方の兄」と考えられてきたが、杉橋隆夫氏は、「牧宗親は、『尊卑分脈』にある藤原宗兼の子・諸陵助宗親であり、牧の方の父である」ことを明らかにし、『吾妻鏡』の「武者所宗親」は、牧の方の兄・大岡時親のことだとした。
 なお、北条時政の2人目の妻は足立遠元の娘である。今回、北条政子は足立遠元に対し「で、あなたは?」と聞き、実衣は「あれが1番得体が知れない」と言っていた。義母である足立遠元の娘が既に亡くなったとはいえ(ドラマには登場しないが、北条時政と足立遠元の娘の子もいるわけで)、これはありえない。

 『愚管抄』では、「この妻(注:牧の方)は、大舎人允宗親(注:藤原宗親=牧宗親)と云ひける者の娘也」とし、さらに大舎人允宗親は、「武者にもあらず。かかる者の中に、かかる果報の出でくる、不思議の事也」(普通、荘官には荘園の地元の豪族(武士)が任命されるが、藤原氏(公家)が京都から下向して荘官になるのは珍しい)とある。藤原宗親は、甥(姉・宗子の子・平頼盛(平清盛の異母弟))の所領である駿河国駿河郡大岡牧(静岡県沼津市大岡。黄瀬川宿周辺)の代官(大岡荘の荘官)に任命されると、現地に赴いて土着し、牧宗親と名乗って「牧氏」の祖となった。なお、「牧氏」は、荘園名から「大岡氏」とも称している。

■『愚管抄』(6巻)
 かくて関東すぐる程に、時政、若き妻(注:牧の方)を設けて、其れが腹に子ども儲け、娘多く持ちたりけり。
 この妻(注:牧の方)は、大舎人允宗親と云ひける者の娘也。舅(注:同腹の兄)とて、大岡判官時親とて五位尉になりて有りき。
 其の宗親、頼盛入道(注:平頼盛)がもとに多年仕えて、駿河国の大岡の牧と云ふ所をしらせけり。武者にもあらず。かかる者の中に、かかる果報の出でくる、不思議の事也。
 其の子(注:牧の方の子・北条政範)をば京にのぼせて馬助(注:左馬助)になしなどして有りける。程なく死にけり(注:享年16)。
 娘の嫡女には、友正(注:平賀朝雅)とて源氏にて有りけるは、これ義(注:大内惟義)が弟にや。頼朝が猶子と聞こゆる。この友正をば(以下略。以下は、牧の方が、夫・北条時政と謀って、女婿で源頼朝の猶子となっていた平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗した事件「牧氏事件」(「牧氏の変」とも)の話。)
http://www.st.rim.or.jp/~success/gukansyo06_yositune.html

※杉橋隆夫 「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」( 『古代・中世の政治と文化』 (思文閣出版)所収。1994年)

※野口実「伊豆北条氏の周辺 -時政を評価するための覚書-」
http://repo.kyoto-wu.ac.jp/dspace/bitstream/11173/1927/1/0160_020_003.pdf

 なお、ドラマの牧宗親は、行儀作法を教える公家として描かれているが、牧の方同様、したたかな人間だったのではないだろうか? ドラマでは、「山木兼隆は山木館にいる」と伊東八重が矢を放って教えたとするが、史実は源頼朝の右筆・藤原邦通が探ったのであろう。とはいえ、私は、黄瀬川宿周辺の領主・藤原宗親が「山木兼隆は山木館にいる。家臣たちは黄瀬川宿で遊んでいる」と教えたのではないかと考えている。さらに言えば、藤原宗親は、山木兼隆の家臣たちに黄瀬川宿で遊ぶよう誘ったのではないかと思う。

※「富士川の戦い」で平維盛が本陣を置いたという手越宿と、源頼朝が本陣を置いたという黄瀬川宿との共通点は「白拍子(舞姫)の存在」である。(手越宿では№1美少女の千寿(千手)前、黄瀬川宿では№3美少女の亀鶴が有名。)「白拍子」は「遊女」と訳すが、舞はもちろん教養もあり、『源氏物語』等を熟読し、和歌も読めたという。今で言えば、京都の「舞妓さん」か?(さてさて、黄瀬川宿の白拍子の指導は藤原宗親が行ったのであろうか? 今回、牧の方が「この程度は」と北条政子に本を渡していた。ちなみに、史実の北条政子は大の読書家で、漢文も読めたという。)

※占いにより、鶴岡八幡宮で12人の手弱女(美少女)に歌と舞を奉納させることになり、源頼朝は、11人の手弱女を鎌倉に呼んでいる。
「1番には、手越の長者が娘・千寿の前。
2番には、遠江の国、熊野が娘の侍従。
3番には、黄瀬津の亀鶴。
4番は、相模の国、山下の長者が娘・虎御前。
5番は、武蔵の国、入間川の牡丹と云へる白拍子。
これをはじめて11人なり。」
11人はすぐに揃ったが、12人目の手弱女が見つからず、見つかった万寿は、唐糸(木曾義仲の家臣・手塚光盛の娘。木曽義仲に頼まれて源頼朝の命を狙うが失敗し、石牢に入れられていた)の娘である。万寿は親孝行な娘で、鎌倉に赴き、12人目の手弱女として、源頼朝の面前で舞を披露すると、八幡大神が感応されたので、唐糸&万寿母娘は許され、引出物をいただいて、無事、故郷に帰った。(御伽草子『唐糸草子』)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992891/69

2.源頼朝の動向

■高校日本史『詳説日本史図録』(山川出版社)
解説 頼朝の挙兵は以仁王の令旨に基づくが、同時に東国武士団の支持がなければありえなかった。彼らの願望は東国領知権の確立であり、この点は養和の飢饉にともなう西国の食料難とともに、富士川の戦いで敗走する平氏を追っての上洛を断念した理由になっている。上洛中止後。頼朝は源氏庶流(甲斐武田・常陸佐竹)を制圧し、東国における実質的な支配権を確立した。


▲本日の「13人の合議制」のメンバー(宿老)

①中原(1216年以降大江)広元(栗原英雄)
②中原親能(?)
③二階堂行政(?)  
④三善康信(小林隆)
⑤梶原景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広):安達盛長の兄の子。御所内の差配を任される。
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘):側近
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎):佐竹征伐に参陣
⑪北条義時(小栗旬):佐竹征伐に参陣
⑫三浦義澄(佐藤B作):佐竹征伐に参陣
⑬和田小太郎義盛(横田栄司):佐竹征伐に参陣

▲『鎌倉殿を支えた13人の重臣ガイドブック』
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/taiga/documents/taiga1201katamen1.pdf
▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/
▲「鎌倉殿の13人 ロケ地ガイド」
http://loca.ash.jp/show/2022/t2022_kamakura.htm

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