マガジンのカバー画像

司馬遼太郎『覇王の家』を読んでみた

9
司馬遼太郎『覇王の家』を読んだ感想的なもの
運営しているクリエイター

記事一覧

司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑧

司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑧

 家康というのは、幼時、下ぶくれで目が大きく、童としては狂躁なところがまったくなかった。婦人がみれば憐れをそそるほどに可愛い少童だったであろう。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

※狂躁:狂騒。狂ったような騒がしさ。人質であったので、普通の子供のようにはしゃぐことはなかったという。また、性格は、忍耐強く、人間観察能力に優れていたという。

【徳川家康の身体的特

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑦

司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑦

尾張の新興大名は織田氏である。
「三河はわしの草刈り場だ」
 と、織田信秀(信長の父)は称していたが、かれはしばしば軍勢を催しては、三河との国境の矢作川をわたって三河に侵入した。茅ぶきの岡崎城にいる三河岡崎衆は、そのつど矢作川流域の野をかけまわって尾張からの侵入軍と戦わねばならない。
「尾張衆の具足のきらびやかさよ」
 と、この当時三河ではいわれた。 尾張は一望の平野で灌概ははやくから発達し、海に

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』

司馬遼太郎『覇王の家』

 『覇王の家』(はおうのいえ)は、司馬遼太郎の「歴史小説」(史実に近い小説)。1970年1月から翌年9月にかけ「小説新潮」に連載された。(同時期に「週刊新潮」で、大坂の陣を扱った『城塞』を連載していた。)

 史伝>記録小説(吉村昭)>歴史小説(司馬遼太郎)>時代小説

 徳川家康を主人公とし、今川家で過ごした幼少期から、豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いまでを中心に、小心で極めて慎重だが悪意を持

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑥

司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑥

  五万石でも岡崎さまは
   お城したまで舟がつく
 と、いまでも座敷でうたわれたり舞われたりするが、この唄にある岡崎城は、徳川時代の模様のもので、堂々たる天守閣ももっている。が、家康が城主のあととり息子としてここでうまれて幼年期をすごした岡崎城というのは天守閣などはむろんなく、櫓や門の屋根もかやぶきで、当地は石の産地ながら石垣などもなく、ただ堀を掘ったその土を掻きあげて芝をうえただけの土塁がめ

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑤

司馬遼太郎『覇王の家』を読む⑤

 以後、家康の代までこの家系はときにさかえたり、ときに衰えたりしたが、ともかくも三河国で3割ほどの面積を領分にし、岡崎城の城主であるほどの分限になっていた。しかし新興は新興でも、大名といえるほどの存在ではない。三河でのいくつかの大土豪のうちの代表的な存在というべきもので、ひとつ油断をし、働きがにぶると、戦乱のなかで消滅するかもしれない存在だった。
                     ──司馬

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む ④

司馬遼太郎『覇王の家』を読む ④

徳阿弥は、松平郷に土着した。土着するとともにキコリどもを手なずけ、やがて
「汝(わい)らは、こんな山中でひえやあわを食うて一生不自由していたいか」
 と、けしかけた、とおもわれる。山をくだって里へ出れば米がある。それには途中の山砦(さんさい)や小城を攻めつぶしてゆくという命がけの作業をかさねてゆかねばならないが、松平氏とその族党は、それをやった。二代目の泰親のときに中山七名(なかやましちみょう)と

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む ③

司馬遼太郎『覇王の家』を読む ③

 松平親氏、つまり徳阿弥は、どうやらその種の魅力に富んだ人物であったらしい。
 かれは三河をさすらううち、西三河の酒井郷の土豪酒井家と、この山間の里の土豪の家を往来するうち、両家のおんなに孕ませてしまい、それぞれ男子ができた。松平・酒井という小さな連合勢力が誕生するのは、このときからである。
                     ──司馬遼太郎『覇王の家』

 徳阿弥(後の松平親氏?)の正体に

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む ②

司馬遼太郎『覇王の家』を読む ②

 そういうキコリ仲間に、あるとき突如、親玉が出現して戦闘員に組織したのが、家康より八代前の親氏であろう。かれは流浪の賤民で、この山間部にながれついた。親氏はこのキコリ部落にながれついたときは乞食坊主の姿をし、
「徳阿弥(とくあみ)」
 と名乗っていた。阿弥という名のつくのは、室町期に流行した時宗の徒のシルシである。念仏をとなえては食を乞うて諸国を遊行してまわり、どこで果てるともわからない。諸国の奇

もっとみる
司馬遼太郎『覇王の家』を読む

司馬遼太郎『覇王の家』を読む

  三河かたぎ

 奥三河の山のなかの坂をのぼって、松平郷という、これ以上は山径(やまみち)もないという行きどまりの小天地に行ったときの夏の陽ざかりの印象は、筆者にとってわすれがたい思い出になっている。
(ここがあの徳川家の発祥の地か)
 とおもえば、草木まで意味ありげにおもえてはくるのだが、なににしても山が深く地がせまく、しかも気づいてまわりを見まわしてみると、みぞほどの流れもない。水がないとい

もっとみる