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100年の孤独/放哉に想う〈Vol.33〉

くもり来し湖の水音ひつそり

尾崎放哉全句集より

この句が詠まれたのは1918年(大正7年)、放哉33歳のときです。同年2月、放哉は師の井泉水に宛てた書簡に、「これからの俳句は『芸術より芸術以上の境地を求めて進むべきだ』と抱負を述べています。
ちょうど第1次世界大戦が終結した年にあたり、政治経済はもとより、文化芸術においても新たな変革の機運が、国内外で高まっていた時代でした。

井泉水主宰の俳誌『層雲』が創刊されたのは1911年(明治44年)でした。
井泉水の手による創刊の辞は、そんな時代の思潮をよく表していると思います。

「文壇は世界の思潮と交渉を有して居る長き並木の道、広き若葉の原である。俳句には其れに適した地味あるといへ、時に之を沃(こ)えたる野に移し或は新しい土を以て培はなければ、遂に盆栽的玩弄物(がんろうぶつ)になつてしまひはしないだらうか。」

『山頭火 句集』403頁 編・村上 護 春陽堂より
 

先の書簡は、こうした師の意をくむ放哉の言葉だったのでしょう。
しかし、翌19年(大正8年)から『層雲』への発表句が途絶えることとなります。



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