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沢木耕太郎『深夜特急』1を読んだ

職場の大先輩との1on1で「好きな本は?」という話になったとき教えていただいた本。
広島行のぞみ号で読んだので、昼間だし新幹線だし、という状況だけどちょっと似てるかな?と思ったのでこの環境で読んでみた。

目次から表現がよい、、、

アパートの部屋を整理し、引出しの中の一円硬貨までかき集め、千五百ドルのトラベラーズ・チェックと四百ドルの現金を作ると、私は仕事をすべて放擲して旅に出た……

今1ドル130円くらいだから、400ドルって52,000円てことかな?と思いながら読んだ。
「脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ」って表現もあった。最高におしゃれでは?

人のためにもならず、学問の進歩に役立つわけでもなく、真実をきわめることもなく、記録を作るためのものでもなく、血湧き肉躍る冒険大活劇でもなく、まるで何の意味もなく、誰にでも可能で、しかし、およそ酔狂な奴でなくてはしそうにないことを、やりたかったのだ。 もしかしたら、私は「真剣に酔狂なことをする」という甚だしい矛盾を犯したかったのかもしれない。

こういう本当に「酔狂なこと」をしたくなるときってある。でもこの規模で酔狂なことをやった経験はないからすごいなと思ったし潔さみたいなものを感じた。あと、真剣に遊んでる人が好きだなーっていつもすごく思う。

好きな場面がありすぎて紹介しきれないから、旅先ごとに抜き出してみる。

《香港の旅》 


今日一日、予定は一切なかった。せねばならぬ仕事もなければ、人に会う約束もない。すべてが自由だった。そのことは妙に手応えのない頼りなさを感じさせなくもなかったが、それ以上に、自分が縛られている何かから解き放たれていくという快感の方が強かった。今日だけでなく、これから毎日、朝起きれば、さてこれからどうしよう、と考えて決めることができるのだ。それだけでも旅に出てきた甲斐があるように思えた。

自分は、今日の予定は何もない!っていうときに、「手応えのない頼りなさ」を感じることの方が多い。結局カレンダーは何かしら小さい予定が入っている。
だからなんだか、この文章が「何もない」は「何でもできる」だということを思い出させてくれた感じがした。

関係があるかわからないけど、この場面から浮かんできたことがある。
最近リーダーから、社内で連絡するときの文章量を3分の1にしてみない?とアドバイスいただいた。
社外に対しては今の丁寧なまとめ方でOK、ただそれをどの連絡でもやっていると、他に優先して考えた方がいいことに時間を使いにくくなると思うから、と。自分のことを既に知ってくれている社内に対しては簡易な連絡でいいよ と教えてくださった。
自分は相手に細かく連携しきらないと「手応えのない頼りなさ」を感じてしまうのだろうなと思った。

相手にまず出してみる、1回フィードバックを見てみるってことをやってみよう。
なぜかこの場面を読んだときに思い出した。

《マカオの旅》

むしろ、中途半端な賢明さから脱して、徹底した酔狂の側に身を委ねようとしたはずなのだ。ところが、博奕という酔狂に手を出しながら、中途半端のまま賢明にもやめてしまおうとしている。賽は死、というのに、死は疎か、金を失なう危険すらもおかさず、わかったような顔をして帰ろうとしている。

マカオの旅を読んでいたときは、めちゃカジノやるやん!と突っ込みながら読んでいた。
でも、だからといって「一度はまると抜け出せないから注意しなきゃ」ということは特に思わず、むしろ「私」が一戦一戦でどう考えるのか?ということにのめり込んで読んだ。
引用した部分のすぐ後で、「賢明さなど犬に喰わせろ」という言葉があってちょっと笑顔になった。
自分はカジノをやったことがないけど、勝ちも負けも「味わう」ことができると楽しくなるのは、ふだんの生活でも一緒だなと思った。

長い本ではないから、東京から香川に行く間に読み切ることができた。今度は古本屋さんで2巻目を買って、夜行バスで読みたいなと思う。


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