「アイロンのある風景」の違和感


この短編は村上春樹っぽくない。どこがぽくないのか?

①関西弁
村上春樹が登場人物に関西弁を喋らせることは滅多にない。関西弁を使うと、どうしてもあのキザな感じが出ないのだ。関西弁には「親しみやすさ」と「日常会話感」がある。しかし標準語には「寂しさ」と「無関心さ」がある。読者が村上春樹に求めるのは後者である。

②啓介という男
これは、僕が初めて「海辺のカフカ」を読んだ時に持った違和感と同じである。村上春樹が「今の若者」を書くとなんか変なのだ。多分初期の「僕」や「ワタナベ」がしっくりきすぎているんだろう。名前も「啓介」というのは不自然だ。普通すぎる。
村上春樹が関西弁のキャラを登場させることはほとんどない。海辺のカフカで図書館に来た老夫婦が関西弁を使っていたような気もするが、モブもモブだ。だから1、2ページ目でいきなり関西弁が出てきた時、お、こういう路線でいくのね、と思った。

③自分語りが多い
まず、順子が学校でジャック・ロンドンの「焚き火」の意見を言うところ。順子の読書感想文は早熟で、それを先生が馬鹿にする。こういうのは、村上春樹は思っても書かないはずだ。こういうのは「なるべく見ないように通り過ぎる」と、川上未映子との対談で言っていた。
また、三宅さんが冷蔵庫の中に入って死ぬんや、というあたりもぽくなかった。そういうのはいつも冗談混じりで流すか、そもそも触れないか、だ。一般的な悩みとか不安を書くのはスタイルじゃない。

④情景描写に捻りがない
これはいちゃもんだが、海辺のカフカ同様情景描写が「安定」している。安定しているというのは、冒険していないということ。比喩の当たり外れがあるのは当然。なんかのエッセイ(多分職業としての小説家だと思う)でも「チャンドラーもたまに外してる時があるけど(笑)」と言っていた。これを読んだとき嬉しかったのを覚えている。てっきり、チャンドラーがかっこつけすぎてイタいことを書いていても、村上春樹にとってはハマっているのかと思っていた。でもちゃんとハズしてたんだ、と。
で、何が言いたいかというと、やはり初期の長くて突拍子のない情景描写に戻して欲しい。ハズしてもいいからよく分からない比喩を使ってほしい。「スプートニクの恋人」で、そういう手法に区切りをつけたとというのをネットで見た。たしかに一文ごとに変わった表現を見つけるのはしんどいだろう。でも、やはりもう一度見たい…

このように書いたが、全て「完璧な文章は…」で一蹴される。その通りである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?