追憶

金魚すくいの紙は呆気なく、一匹も獲れずに破けた。
獲れそうな気配すらなく、そもそも大物を狙おうとしてはおらず、少しだけ水中に潜らせて何度か左右に揺らしただけで、紙はあっという間に破けてしまった。

残念だったねー!

という、金魚すくいの紙と同じくらいに薄っぺらな言葉をかけた店主の声は、十分に湿気を吸った空へと舞い上がり、誰の心にも残らずにそっと消えていった。そうだ、あの後すぐに雨が降ったんだ。水元が、風邪をひいてしまうのではないかと、俺は心配で、だから早く帰ろうと言ったんだ。

水元は、妹がいると言っていたから、多分俺のことを、年下のように見ていたんだろうな。金魚すくいで一匹も獲れなかった俺のことを、水元は慰めてくれたんだよな。濡れた髪が、とても重たそうだった。水元の手は、雨に濡れてふやけていたんだよな。女子の手も、普通にふやけるんだな、とその時に初めて気づいたんだった。

夏休みに入る直前、思い切って、夏祭り、一緒に行きたいと伝えた瞬間の気持ちは。あの時の気持ちがどんなのだったか、もう覚えていない。俺の言葉を受け止めた水元の顔は、もう覚えていない。そして、水元がどう返事をしたのか、もう覚えていない。ただ、一緒に行ったという記憶から推測する限りでは、水元は俺と一緒に夏祭りへ行っても良いという返事をくれたのだろう。あれから20年近く経つが、未だにその時の瑞々しい記憶が残っている。

記憶は、時折思い出すことがあるから、消えないのだ。時折思い出すのは、その思い出が恋しくなるからだ。なぜ恋しくなるのか。それは、その思い出が大切だからだ。水元のことを大切に思っているというよりは、あの時に水元と一緒に過ごした時間がとても恋しくて、それは自己満足の範疇をきっと超えることはなく、そういう意味では水元を利用している自分がいるのかもしれない。
だけどきっと、そんな気持ちを打ち明けたとしても、水元は優しいから、それでも良いよ、と言ってくれるだろう。

今でも水元のことが好きか?という問いかけに対して、ストレートにイエスとは言えない。今の水元を知らないし、それ以前に、20年前の水元のことが好きなのか、水元と過ごした時間が好きなのか、俺はいったい誰に、何に、恋をしていたのかはっきりとは分からないからだ。

風邪をひいてはかわいそうだから、と早々に駅で別れ、その時に見送った背中。あの時、水元はどんなことを考えていたのだろう。白い浴衣が表す肩のラインは、普段見るような高校の制服よりもだいぶ細く見えた。

あの時の雷は、とても激しかったな。
水元の、ふやけた指先。
髪から滴り落ちる雨。
水元の肩。
水元が乗る電車の、発車ベル。ドアの閉まる音。
金魚すくいの、紙が破けた瞬間の衝撃。

もしかしたら記憶が曖昧で、水元という人間は、いなかったのかもしれない。

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