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バリカン

拓海は手先が器用で、私の襟足をいつも軽やかに刈ってくれた。
彼がいなくなった今、それを自分でやろうとする気が起きず、それは私が不器用だからというよりは、バリカンの音を聞くと彼のことを思い出しそうだからなのだが、

つまり、私はたくさんの未練が残っている。
認めたくない、けど、きっとそうだ。私の身体のことは、理解しているつもりだから。

器用に人生を渡る人間は、たくさんの人間と出会いや別れを経験しているはずで、その時に感じるであろう喜びや痛みといったものについて、うまく処理できるような思考回路を持っているのだろう。

拓海は仕事の異動で、福岡へ旅立ってしまった。
異動の話を聞いた時、私は最初に、遠距離恋愛になるのか、少し不安だな、という思いを抱いた。だが、拓海は続けて、ここで終わりにしたい、と、俯きながら、ぼそぼそと言った。大きな身体を縮めて、とても恐縮してそうな雰囲気だった。ふさふさした睫毛が小刻みに揺れていた。

抵抗しても良かったのだ。1年以上、彼の恋人でいた私なのだから、抵抗する権利はあったはずだ。だが、拓海の心中を正確に察することはできなかった私でも、新しい場所で新しい人間関係を築いていきたいんだろうな、と想像し、彼の気持ちを優先することにした。
翌週には引っ越すというスピーディさに驚き、お互いの部屋にあったお互いの私物は、適当に送りあおうという曖昧な約束を経て、私たちは、エキナカのスターバックスから出て、別々の道を歩き出した。最寄り駅に着いたものの真っすぐアパートに帰る気になれず、公園に立ち寄った。日曜の夕方、まだ何組かの家族連れがゆったりした時間を過ごしている。平和だなー、としみじみ感じていたら、涙がたくさん出てきてしまった。こんな姿を他人に見られたら恥ずかしいという思いで、急いでベンチから立ち上がり、アパートに帰宅した。

よく考えたら拓海はしばらくこの家に来ていなかったのだな。私が拓海が住むアパートに行くことがとても多かったのだ。拓海の私物はほとんどなかった。あっけなかったな、と思った。

福岡なんて遠くなくて、飛行機のチケットを取ってしまえば、このアパートのドアから拓海のアパートのドアまで、きっと3時間程度で着くはずだ。

それを、拓海に会いたいという気持ちだけを優先して、実行に移す…

私にはそれができなかった。

多分、私は優しくて、拓海の思いを優先してあげたいと思ったからだ。

気が弱い私。悲劇をさめざめと涙を流しながら受け止める私。それでも、生きていこうとする私。
もしかしたら悲劇の渦中にいる私を、誰かに慰めてもらいたいのかもしれない。けど私にはそんな時に都合良く表れてくれる友人はおらず、強いて言えば生まれたばかりの子供に奮闘する姉くらいなもので、彼女は彼女なりに子育てに頑張っているはずだから、ヘタな心配をかけたくない、と思うところも、

また、

私らしいな、と思うのであった。月がだんだん昇ってきた。

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