その惑星は美しいか~アルマ「ビューティフル」/「熒惑星」~
このnoteでアルマについて触れるのは久々である。2ndアルバム『生活』以来だから、その後のいわゆるシングル曲のリリースはすべてノータッチ。
しかし実は1stアルバム『ユースフルデイズ』から昨年リリースされた「陽炎が立つ」までは、音楽ミニコミ『WR』のVol.1にて丁寧にたどっているので、気になる方はそちらを読んでいただきたい。
今回のリリースである「ビューティフル」と「熒惑星」を聴いて、いちばん衝撃を受けたのはなんといってもミックスである。
通常、推しのバンドが新曲をリリースした際に着目するのは歌の力強さやカッコよさであり、演奏の素晴らしさであり、ミックス及びマスタリングに言及することはないのではないかと思う。
しかし、今回のリリースに限っては、この「ミックス」というものが「アルマ」という存在をより浮き立たせているといっても過言ではない。
まず、ミニコミで書いた「陽炎が立つ」以降のアルマの活動についておさらいしよう。
当時「アルマが死んだ」というバンド名だったこのアーティストは、その後音楽事務所RISEに所属。同時に「レインマン」という楽曲を発表する。
役者をクビになった男が、失意の雨の中荒んで見える世界に「自分は用なしだ」と歌う。しかしそこまでが求められた役割であり、最後には「カット!完璧だ!」と、演技であったことがわかる……という内容のリリックビデオとなっている。
このリリックビデオ自体には色々と仕掛けが凝らされていて、その謎解きをするのも楽しい。
穏やかでいながら、世界への絶望を歌う。
そんな曲で「アルマが死んだ」の次のフェーズはスタートを切った。
そして本日、2022/04/04、アーティスト名を「アルマが死んだ」から「アルマ」へと変更して最初のリリースが、本稿で取り上げる「ビューティフル」と「熒惑星」である。
「ビューティフル」は自分の過ごしてきた時間や仲間を懐かしみながら、そして少しだけヘイトしながら、それでも「人生」を戦い抜く──生き抜く──ということを讃える楽曲である。
曲調はストレートなギター・ロックで、今までのアルマを応援していたファンが安心するような、「これぞKOHEI SATOの曲だ」と思うものである。
しかし、筆者はこれを初めて聴いた時に、微量の違和感を抱いたのだった。
それは同時リリースされた「熒惑星」を聴いて、より鮮明なものとなる。
きらきらとした同期から始まる、冬に輝く火星──熒惑星──の曲。寒々とした夜空に赤く燃える惑星のように、消えることのない想い。メロとサビでの歌いわけが、よりドラマティックに楽曲を盛り上げる。
しかしやはり、この楽曲からも違和感を受け取ったのだ。
そしてそれが、冒頭で述べたミックスに由来するものだと気づいた。
過去の楽曲は、KOHEI SATOというアーティストの持つ特性を前面に押し出すためのものだった。
二枚の『ユースフルデイズ』と『生活』というアルバムで、「アルマが死んだというバンドをやっている人間はこういうことを考えていると伝えたかった」と本人もはっきりと明言している。そして、その後のリリースで「アルマが死んだ」というバンド自体の音楽性を打ち出した。
では「アルマ」に改名してリリースされたこの二曲は、今までとなにが違うのか。
それは、この二曲は「KOHEI SATOの曲」としてではなく、「アルマ」の曲として作られているのである。
「アルマ」とは、ボーカルのKOHEI SATO以外のメンバーが流動的である「ひとりバンド」という、特殊な形態をとっている。そのためKOHEI SATOという人物にどうしても着目してしまうのだが、あくまで「バンド」なのだ。
「ビューティフル」と「熒惑星」の二曲は、バンドサウンドとしてのまとまり方が今までと違う。それが、ミックスによるものなのだと気づいた。
ロック・バンドの楽曲での「主役」とはなんだろうか。やはりボーカルなのだろうか。それとも、花形とされるギターか。屋台骨を支えるリズム隊なのか。
どれが欠けてもロック・バンドはロック・バンドとはなれず、どれが目立ちすぎてもいけない。
音源のミックスとは、その絶妙のバランスを見極める作業である。どのパートであっても、響きすぎることなく、引っ込みすぎることなく、それぞれの音で「一曲」を作る。答えのないジグソーパズルを組み合わせるような作業だ。
本日リリースされた「ビューティフル」と「熒惑星」は、過去にリリースされたアルマの楽曲に比べ、ボーカルが前に出ていない。それはつまり、他のパートへの注意が向きやすいということである。
音量のバランスが悪いということではなく、ボーカル「のみ」を目立たせるためのミックス、ではないということだ。
そこに、「アルマが死んだ」が「アルマ」と改名し、「バンド」として機能を始めた証を観た。
さらに言及すると、もはやアルマはKOHEI SATOのみの存在で押し出すバンドではなく、「ひとりバンド」は「みんなでのバンド」へと形を変えてきているのだ。
もはやこのアーティストに関わるすべての人間が、「アルマ」の一員なのだ。
KOHEI SATOだけでなく、レーベルのメンバーだけでなく、ライブのサポート・メンバーだけでなく。
アルマに関わったすべての人間が、「アルマ」という存在を形作っていく。
それはまさに、人間社会の縮図そのもの。ひとつの惑星に、あらゆる役割をそなえた人々が、手を貸したり貸されたりしながら、戦って生きていく。この惑星の営みとまったく同じだ。
このアーティストはこの後、どんな存在に成長するのだろう。怪物に成長するのか、それとも優しい隣人に成長するのか。