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『急に具合が悪くなる』はどういう本だったのか

『急に具合が悪くなる』 宮野真生子・磯野真穂 著、(晶文社)


素晴らしい読書体験だった。内容ももちろんだが、読書をしていた時間が尊かった。


そしてこの本は、すごすぎる。その一言で終わらせた方が良いのかもしれない、と何度も思った(これを書いている今も思っている)。ただ、それはここまで中身があり、文字通り死力を尽くして出版された本に対して、誠実なようで、実は不誠実な言葉なのかもしれない。そう考えて筆をとった。



そして、こんな記事も読んだ。


そう、磯野さんも、この本を読んだ人には口を開いてほしいのだ。彼女は裏表紙のライオンのように、まだミットを構えて待っている。


だから、ミットめがけてボールを投げてみよう。暴投でしたらすみません。


(こんなツイートもいただいてしまったし)


でもでも、感動した小説や映画についてアレコレ述べず、「ただただグッときたんだ」という言葉を残し、その感覚を一生大切にすることも大事だと思う。


勇気をもって書き進める。まず、この本は2人の学者による書簡をまとめたものだ。哲学者でがんを患っている宮野真生子さんと、文化人類学者の磯野真穂さん。

既に宮野さんは亡くなっている。亡くなる直前まで、この書簡をやり取りしている。だからこそ内容は重厚だし、読んだ人は何も言えなくなるのだろう。

書簡の内容が愛に満ちていて、それでいて迫力満点だ。渋い良作映画を観たような、もしくは哲学書を読んだような、もしくは青春ドラマを読んだような、色々な読後感を味わえる。ぼく「なんて羨ましいんだろうか」と思った。



本の内容をほんの少しかいつまむ。宮野さんが「急に具合が悪くなることがあります」と医師に言われたことをピックアップしながら、2人はさまざまなやりとりをする。聡明な宮野さんは知人からの民間療法の誘いに困り、断りつつも、「医師にとってやりやすい良い患者」のように、合理的に判断し、いろんなことを決定していったことを話す。加えて、自身のことを「現代社会に啓蒙されたお勉強がよくできるだけの優等生なのかもしれない」とも語る。(ぼくはここが一番ずっしりきた)。磯野さんの球出しにはキレだけでなく誠実さが光る。

やり取りしているうちに、ほんとうに、宮野さんの体調が悪くなっていく。「死はかならずいつか来る、しかし今ではない」から「死は今ここにやって来ている」に変わり、「急に具合が悪くなる」というプロセスが動き出す。しかし、宮野さんは自分を患者に落とし込むことはしない。そうしてしまえば、全ての人間関係において自分が患者であることを演じる必要が出てしまうからだ。自分を患者という存在に固定せず、自分として生き続けるために、言葉を紡ぎ続ける。「まだ書ける?」と聞く磯野さんに対し、宮野さんは「なめんなよ、磯野真穂!」と返す。なんだよこれ、カッコ良すぎるだろ。2人とも。


そしてやりとりはずっしりと重くなり、まっすぐさが増していく。磯野さんは「体調が死の迫ったあなたにとって、生きるとはどういうことか?」という、ど直球の球を投げる。そして宮野さんは受け止め、返していく。終盤のやり取りは、言葉にならない。言葉にできない。ただ、読んでほしい。それに尽きる。


ぼくはなぜ羨ましいと思ったか。こんな風に、人生について信頼できる相手と全力の書簡を交わし、亡くなる(生きる)ことって、望んでも叶わない。そしてその羨ましさも、単なる羨望ではなく、ずっしりと重く、さらに爽快感に満ちている不思議な感覚だ。この羨ましさの根には、2人の関係性が、 「魂を分け合った」ものになったことがある。


これからはぼくなりに考えた、この本が残したインパクトを書いていく。


1.医療者への提起

この本のSNS上の動きを見ていると、医療者が医療者に勧めている場をよく見かける。なんでなんだろう?医療者はなぜ医療者に読んでほしいと思ったんだろう?それは、医療者に聞きたい。「合理的判断」がキーワードかもしれない(と思っている)。


2.患者としの生き方を提起し、生きることと選択することに迫った

 最近の医療者たちは科学的に裏付けされた医療を発信するのに必死になっている(もちろん良いことだ)。それは、正しい標準治療を患者に届けるためと、合理的に判断できる患者を育てたいと思っているのではないか。あと、困っている人に情報が届くように行動してくれているのだと思う。(ぼくも教師として、科学的・合理的に判断できる生徒を育てたいと思っている)

宮野さんは聡明で、「医者にとって良い患者」だ。しかし、宮野さんは「医者にとって良い患者」は「現代社会に啓蒙されたお勉強がよくできるだけの優等生なのかもしれない」と、壁をつきつける。具合が悪くなった後、「自分を患者という立ち位置に固定する」ことを避け、言葉を紡ぎ、自分らしく生きることに徹することでラインを描き続けた。合理的判断ができる人として、その一つ上にいったように見える。このように、今の医療者が目指している世界の中でぶつかる壁を見つけ、それを乗り越えた宮野さんを、追体験するできたのは非常に価値のあることだと思う。また、哲学者宮野真生子が、死が迫る中で命と選択について迫った文章を読めることに価値があったのだと思う。


3.「宮野と磯野」というプロセスを味わうことができた

コミュニケーションのHowToがありふれ、単純化された世界で、その問題点を指摘し、お互い直球を投げ、打ち返していく。お互いが点と点の移動でなく、その間に深くラインを描いていく行為を目の当たりにする。磯野さんは「もうこの出会いは決まっていたことだから、宮野とは魂を分け合っているから、この先宮野がどうなろうとも、その別れが、死んじゃうこととか、もしかしたら喧嘩別れとか、なんとなく離れるとか、どういう形であったとしても全部引き受けるつもりでいます。」と綴る。このことは、自分が「魂を分けあった」関係を築けることを意味する。なにより、本気で言葉を交わした相手から「魂を分け合っている」と言えること、言ってもらえることって、言葉にならないほど素敵だと思う。また、僕たちはラインを描いた2人を見て、「あなたはラインを描いているか?描けるのか?」と問われているようにも感じる。そして、人はこのようなラインを描くことができる、ということを見せつけ、人生の最期にはそのラインが残ることを示した。読者は背中を押された感じがするのではないか。




さいごに

しかし、やっぱり言葉にしてもしきれない。感情的な「ただただグッときたんだ」という感想の方が、この本には似つかわしいとも思う。書かれている内容もさながら、重さとともにリアルタイム性を感じるこの読書体験がかけがえのないものだった。

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