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いきものと暮らす全ての人に読んでほしい、ある漫画家と一匹の猫の最期の軌跡【マンガ感想文vol.1】

こんにちは。とあるベンチャー企業でひとり人事をしている朱夏です。

今日は、かねてから書きたかった「#マンガ感想文」にまつわるお話。

このお題、簡単なようで私には難しく感じて、なかなか手をつけられていませんでした…
だいぶぐるぐる悩みましたが、今回はこちらについてお話させてください。


須藤真澄先生の『長い長いさんぽ』です。

愛猫「ゆず」と「まま」こと真澄先生のおばかで愛らしい日常を描いた『ゆず』シリーズの完結編ともいえる作品です。

私の母親が大の猫好きで『ゆず』シリーズを持っており、それを読んだのがきっかけで真澄先生の作品を知ることとなりました。当時、私は小学校4年生くらいでしたかね。

余談ですが、私は『ゆず』シリーズを先に読んだ人間なので、その後『子午線を歩く人』『アクアリウム』を読んだ時には、あまりの作画テイストの違いに同じ作家さんだという認識ができず、頭が大混乱した記憶があります笑


この『長い長いさんぽ』を初めて読んだのは高校生〜大学生の頃。
本の帯に「ゆずの最期」と書いてあるのを見て、

「いや、あれから10年近く経っているんだからそりゃ当たり前の話だろう」
と思いつつも、
「えっ、ゆず死んじゃうの……?」
と思っている自分がいました。

そういう意味で、当時の私にとってゆずと真澄先生の物語はまだフィクションだったわけです。

時は経ち2020年。
現在、私は6歳になる愛猫ベネと暮らしています。

猫と一緒に暮らす身になって改めてこの作品を読み返したら、なんかもういろんな感情がぶわーーってなってしまって。

ゆずと真澄先生のお話が他人事じゃなくなったことで、真澄先生の心情変化への共鳴度合いが増したとでもいいましょうか。
作品で描かれる真澄先生の心情描写の受け取り方が変わっている自分がいました。

特に私の胸を打ったのは、真澄先生が旅から帰ってきたときの場面。

真澄先生が自宅に着き、父ちゃんの目から全てを悟ったこの場面は、一緒になって涙が溢れて止まりませんでした。

16年連れ添った家族の最期に、寄り添うことができなかった。
生と死の狭間で苦しむ愛猫のそばにいることができなかった。

私たち人間は、天寿を全うする瞬間をとても尊いものだと感じています。
愛する人の最期には側にいたい、いなければと強く念じているわけで、

だからこそ、その瞬間に立ち会えなかったことでこれまで共に過ごしてきた時間さえ否定されているような感覚。許されてはいけないんだという罪悪感は、その愛が大きい分より一層深い影となって真澄先生の心を覆ってしまっているように感じました。

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(『長い長いさんぽ 前編』より)

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このお話は前後編となっておりまして、後編ではゆずの身体を自然に帰し、再び真澄先生たちが前を向いていく過程が、その心情変化とともに丁寧に描かれています。

ゆずが旅立った直後は自分が楽しんだり美味しい思いをすることが許されないんじゃないかという罪悪感で前を向けなかった先生に涙しましたし、

ふとしたきっかけで、ゆずに楽しいことだって伝えることができる、そしてそれは自分こそがやらねばと立ち上がる先生に心を揺さぶられました。

ゆずへの深い愛情を、自身が暗い檻に引き籠るためではなく、ゆずにこの広くて素晴らしい世界を伝えるための力に変えていく。

もし自分が同じ立場だったら、こんな風に前を向けるだろうか。きっと後悔に苛まれて自分の殻に閉じこもっちゃうことしかできない気がしていて。

でも、この真澄先生のたくましさ、力強さに少しだけ勇気をもらえた気がしました。

そうか、こうやって乗り越えていくのか、と。
何かを愛するというのは、失った時に悲しみに打ちひしがれることだけではないのだと気付かされました。

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他にも、ゆずの骨壺カバーを自作したり、ゆずを置く台を自作したりと、クリエイターならではの愛情表現フルスロットルな真澄先生に、ただただ「すげぇ」と思ったり。

そして読み終わったあと、自分の家族を抱きしめたくなる、そんな作品です。

いきものと暮らす方
かつていきものと暮らしていた方
これからいきものと暮らそうと思っている方

そんな方々にぜひ読んでほしい作品です。

それでは今日はこの辺で( ˘ω˘)

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