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第86回 『日本三代実録』での匂わせと道真の死

道真を左遷してから約半年後の延喜元(901)年8月2日、左大臣藤原時平によって『日本三代実録』が完成・奏上されました。これは『六国史(りっこくし)』の最後のもので、公的歴史書です。
三代というのは清和・陽成・光孝天皇の歴史を叙述したものですが、もちろんあの「源益殺人事件」をどうするかが問題になったでしょう。
実はこの書の事実上の編纂者は菅原道真でした。編纂者に名を遺す事は許されていましたが、時平が代表として醍醐天皇に奏上したのです。

問題の記事は「源益が殿上にて格殺さる」となったいます。犯人の記述はありません。しかし陽成天皇が実は犯人であるという事を匂わせています。この時、陽成上皇は36歳で壮健であったので、ただ益が亡くなっただけを書いたのでしょう。陽成上皇を刺激せず、後世に「陽成天皇が殺人者であった」爪跡を残すための巧妙な文章なので、これはやはり知恵者・道真の作でしょう。

その道真は後悔の念を持って大宰府に暮らしていました。9月には前年の重陽(ちょうよう)の宴の時に秋の詩を奉って、醍醐天皇がいたく感動し、衣服を道真に賜りました。道真はその恩賜の御衣を抱きながら、「源善にあの婚姻を勧められた。あの時に固辞していれば・・・」と最後の引きがねになった娘と斎世親王の婚姻を後悔しましたが、後の祭りです。

やがて道真は病になり、左遷されて丸二年後の延喜3(903)年2月25日、59歳で亡くなりました。旧暦ですから本来は桜の咲く時期でしたが、新暦の2月末だと梅の盛りなので道真を偲んで「梅花祭」などが行われています。
道真の怨霊の噂が出てくるのはもう少し後の事でした。(続く)

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