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第113回 原爆の共同開発

1942年6月。ミッドウェー海戦でアメリカが勝利した後、イギリスのチャーチルはまた渡米し、ハイドパークのローズベルトの私邸を訪れていました。
そしてもう一度、イギリスの原爆情報を提供するから共同開発しようと提案しました。
「原爆を先に造った方がこの戦争に勝つのだ!」
チャーチルはローズベルトに力説しました。
とにかくチャーチルは、ヒトラーが先に原爆を持つという事にひどく怯えていました。そして原爆開発にまだ余り乗り気でなかったローズベルトも、対日戦の成功のめどが一応たったので、チャーチルの執拗な説得とナチスが先に原爆を先に持ったら・・・という共通の恐怖の前に共同緒開発を承諾しました。
7月に、オッペンハイマーは原子爆弾をテーマに、拠点のバークレー校で夏恒例の会議を招集しました。その中でハンス・ベーテを有力なメンバーと確信しました。
太い眉が特徴のエドワード・テラーは、その中で場違いの核融合の水素爆弾を主張しました。

一方、人質の体になっている駐日大使グル―と駐米大使野村吉三郎・来栖三郎の交換が行われました。グル―は駐日大使を十年務めた親日家であり、この戦争を憂慮していました。 (続く)

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