第25回 安祥(あんしょう)寺(1)
『伊勢物語』第77・78段に天安3(859)年正月2日に山科の安祥寺で行われた文徳天皇女御・多賀幾子の四十九日の様子が描かれています。業平は35歳でした。
多賀幾子の弟で仲が良い常行(ときつら:24歳)から業平は歌を奉る歌を所望され詠みます。
「山のみなうつりて今日にあふことは 春の別れをとふとなるべし」-山がみな移動して今日の盛大な法事に参列したのは、女御と春の別れを弔おうとの気持ちであろうー
山というのは、捧げものが山の様に動いているとも、釈迦伝説で山が崩れたと両説があります。
法事の後、業平はせっかく山科に来たので、そこに住む出家している叔父(父阿保親王の弟)高岳親王の邸を訪ねるという話です。
さて、私は『伊勢物語』に出てくる名所を訪ねる事を生き甲斐としていた時期があって、いろいろ行ったのですが、この「安祥寺」は平成当時、何故かずっと拝観停止となっていました。(ここ数年は年に何日か開いています)故・津島佑子さん(太宰治さんの娘)の書かれた『伊勢物語/土佐日記』(講談社)には、安祥寺を訪ねると、70歳くらいの女の人に門前払いにされ、それでもしつこく頼むと「今どきの人は!」と拒絶された事が載っています。
平成14年の4月中旬、私は家内と車で、遅い醍醐の桜を観に行こうと出かけました。京都東インターで降りると地図では「安祥寺」はすぐ近くに見えました。私はダメ元で「ちょっと寄っていい?外観だけでも見たいねん」と車が行けない坂の下で妻を待たせ、小走りに寺を目指しました。山科疏水の音が快く聞こえ八重桜が満開で私はそれだけでも来て良かったと思いました。
やがて黒塗りの立派な安祥寺の門に着きました。
最初は見て帰るだけの積りでしたが、やはり白い丸ベルを恐る恐る押してしまいました。やがて70くらいの女の人が不機嫌そうな表情で門の中から顔を見せました。「この人だな・・・」と思ってると、
「何の御用ですか?」明らかに迷惑そうな声で彼女は言いました。
「すみません、中を少し見せて頂きたくて」「どちらからお見えですか?」
「兵庫県です・・」と咄嗟に言ってしまって、私は「しまった!」と思いました。東京や九州ならいざ知らず、そんな近県を馬鹿正直に言ってしまって、もう駄目だ・・と私は目を伏せました。彼女の「お帰り下さい」という声を待っていました。
しかし彼女はしばらく黙っていましたが、やがて「ちょっとお待ち下さい」と言って門の中に消えていきました・・・(続く)
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