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第45回 ながらへばまたこのごろやしのばれむー今はこんなに悲しくても。

久寿2(1155)年5月7日、崇徳上皇が歌の師と仰いでいる藤原(六条)顕輔が66歳で亡くなりました。『久安百首』を奉った人でもあります。有名な歌には「秋風にたなびく雲の絶え間より もれ出づる月の影のさやけさ」-秋風によってたなびいた雲の切れ間から、もれさしてくる月の光の、なんとくっきりと澄みきっていることよ。(『百人一首』第79番)

顕輔の兄には鳥羽法皇と近い長実(得子の父)や家保(家成の父)がいましたが、崇徳上皇は純粋に歌を通じてお互いに敬愛していました。

顕輔には、息子に歌人ながら不仲の清輔がいました。崇徳上皇の命令で顕輔が『詞花集』という歌集をまとめた時、清輔の歌を一首も入れてあげなかったのです。
顕輔が亡くなってまもなく清輔(52歳)が崇徳上皇の御所に参上しました。
清輔は言いました。
「父とは長らく不仲でございました。それと言うのも、父が母と我が兄弟を捨て、別の女を愛し、その子供たちを愛したからでございます。母は嘆きながら亡くなりました。私は父を一生許さぬ積りでおりました」
崇徳上皇は、同じく不和である父鳥羽法皇の事を思ってじっと聴いていました。清輔は尚も続けました。
「ですが父は臨終の間際、私を呼び「人麻呂の御影(ぎょえい)」を渡してくれました。六条家の家督の象徴です。『そなたがこれを受け継ぐに相応しい』と・・・父は私の才を認めてくれていたのです。決して向こうの弟たちには渡さなかったのです。私はやっと父を許しました・・・」
清輔の眼からは涙が溢れていました。崇徳上皇も父と和解する日が来るのかと貰い泣きしました。清輔は言いました。
「新院様にはこの歌を献じます。『ながらへばまたこのごろやしのばれむ 憂(う)しとみし世ぞ今は恋しき』-この先生き永らえるならば、辛いと感じているこのごろもまた、懐かしく思い出されることだろうか。辛いと過ごした昔の日々も、今では恋しく思われることだから。(『百人一首』第84番)」
崇徳上皇は喜びました。「まことに良い歌じゃ。千年先も歌い継がれるぞー今はこんなに悲しくても、そんな時(時代!)もあったのかと・・・」

※「ながらへば」の歌はもう少し後に作られたという説があるのですが、拙著でこの場面に入れました。(続く)

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