第93回 醍醐天皇、忠平を冷遇
右大臣源光が謎の死を遂げてからも、醍醐天皇は忠平を大納言から大臣に昇格させようとはしませんでした。
ひょっとしたら、忠平が犯人かも知れないとちらっと思ったでしょうか?前述した様に、自分を裏切って法皇派に鞍替えした忠平を天皇は信用できなかったのです。
延喜14(914)年8月9日、まず亡き時平の嫡男保忠(やすただ)が23歳になっていたので参議としました。やがては保忠が政権の中心にしようと醍醐天皇は期待していました。
遅れて8月25日、光の死から1年半後にやっと忠平(35歳)は右大臣に昇格しました。本来なら左大臣が空いているので左大臣にしてもいいのですが右大臣に留め置きました。光をずっと右大臣にしておいたのも忠平を大臣にさせないためかと思われます。
尚、この日、同時に藤原清貫(きよつら:48歳:業平の外孫)が中納言になりました。
翌年正月20日、忠平の嫡男実頼が16歳で元服しました。お祝いの叙位は普通天皇から使いが来るのですがいくら待っても来ません。醍醐天皇は無視の構えです。仕方なく忠平は宇多法皇に泣きついて叙位を出して貰いました。
忠平は実頼の正室に時平の娘を迎えます。醍醐天皇の疑惑を解くためのものでした。
更に翌年10月、東宮保明(やすあきら)親王が14歳で元服しました。忠平は我が娘の貴子(13歳)にしようとしますが、醍醐天皇はそれを拒否。亡き時平の娘仁善子(にぜこ:『源氏物語』の六条の御息所のモデル?)を妃とします。あくまでも時平系統を主流としたい訳です。
延喜17(917)年の記録に「陽成院が干ばつに苦しむ民衆に二条の御所を開放して池の水を汲む事を許した」とあります。陽成上皇は50歳。17歳で退位させられてからも乗馬や歌会をして元気でした。この頃は、身分が低い者でも邸に召しーそれを欠点だと書いています。暴れん坊将軍みたいで(ドラマですが)好意が持てるのにー、また盲人に住居や衣服・食べ物を与えて保護しています。
「困るな、陽成院に善行をされると」
醍醐天皇の冷たい態度に加えて、父基経の名誉を守るために陽成院を悪者にしたい忠平はいろいろと悩んでいました。(続く)
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