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第107回 なぜ『伊勢物語』と呼ばれるのか?

949年に陽成院が崩御、950年にその長男大納言源清蔭が亡くなってから、960年までの間に、陽成院側の大物も無く、『伊勢物語』は公表されたと思われます。970年に紫式部が生まれ(一説)、少女時代この物語を愛読したと言われます。

さて、何故『伊勢物語』と呼ばれるのか? 歌人の伊勢が作ったとかいう説もありますが、やはり陽成院の伯母である伊勢の斎宮恬子内親王と在原業平の密通からでしょう。今は125段ある内の第69段に位置づけられていますが、最初は冒頭にあったと言われます。
未婚の内親王が色男と密通する。そして秘かに男児を出産する。(出産する場面は物語にはありませんが) 一大スキャンダルです。現在この様な事があれば大変な事になります。

余りにも刺激がきついという事でしょうか、真ん中の変に、この狩りの使いの段は移動し、代わって初段に「初冠(ういこうぶり)」が設けられます。「春日野の若紫のすりごろも・・・」(ここから紫式部が若紫を採った?)や源融の「みちのくのしのぶもぢずりたれゆえに・・・」の歌も配置して見事に初段を創作しています。誰でしょうね?

陽成院の母高子と業平の出奔はもちろん最初の方に出てきて、陽成院の親族は淫乱であると貶める効果を出しています。
後にはダメ押しで『今昔物語』で陽成院の祖母・明子(あきらけいこ)が悪僧の妖術にかかって、文徳天皇の御前で淫乱にふけるというのも入れています。昔、NHKの番組でしょうか、故・永井路子さんが「目が爛々として・・と表現されてましてね」と驚きながら言っておられました。永井さんも信じてらっしゃったのでしょうか?
前述しましたが、今人気の『応天の門』でも明子が淫乱に狂う姿が載せられていました。残念な限りです。

しかし数々の冒涜にも『伊勢物語』の歌と文章は洗練されて美しく、品位を保っています。現在では、これは事実ではなく、「悲恋の物語」として受け止めようという学者たちも多いようです。私は、史実派ですが・・・(続く)

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