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第32回 夫の死

長保3(1001)年正月。前年末の皇后定子の崩御により、節会はなくひっそりとしていました。けれど道長は、1月10日、妻倫子の母穆子の七十の賀を盛大にやります。穆子は香子の父為時の従姉にあたる人でしたが、亡き左大臣源雅信の妻であった訳で、格が違っていたでしょう。

春に父為時が任国の越前から帰ってきました。娘の賢子も見せる事ができて香子は幸せを感じていたでしょう。
2月5日には、現右大臣の顕光の長男重家(25歳)が道長の養子成信(23歳)と共に突然三井寺で出家して世を驚かせます。二人とも美男で有名だったのですが、何か思う所があったのでしょうか。
顕光といえば、長女で承香殿の女御元子が3年前に「水を産んだ」と嘲笑されて以来の悲しい事でした。

そして4月25日。2月頃までは出仕して元気だったという夫宣孝が倒れ、亡くなってしまいました。49歳。臨終には間に合ったのでしょうか。

香子は夫の死去に伴い和歌を詠みました。
「見し人のけぶりとなりし夕べより 名ぞむつましき塩釜の浦」
(夫が火葬になり煙となった夜から塩釜をとても身近に思う)
『源氏物語』で瀕死の柏木と女三の宮が煙を題材に歌の応答をしています。

2年半の短い結婚生活でした。喧嘩をした事もありましたが夫の優しさが思い出されます。雨が降る日は、香子の得意の琴の弦が緩むので、
「琴柱(ことじ)を倒せよ」と言ってくれました。
また、香子は鰯が大好きで、自分で焼いていると、宣孝が笑いながら、
「才女は鰯が好きなのですか?}と冗談を言ってきたこと。(この話は和泉式部だという説もあります)

香子32歳。未亡人となった身としては、悲しさを振り払うためにも、少女の頃から考えていた『源氏の物語』を本格的に書こうと思ったのでした。

この年、亡き宣孝の長男隆光(29歳)から言い寄られたという話もあります。
「義母を恋い慕う」
このテーマが香子の中で熟成されていくのでした。

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