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第67回 清盛の策略

平治元(1159)年12月9日、藤原信頼と源義朝が兵を挙げた事を翌日、平清盛は紀伊の田辺で聞きました。
「やはり」
自分の留守を狙って信頼と義朝が事を起こす事は充分に予想されていました。そして老臣の平家貞が進み出ました。
「こんな事もあろうかと、武具、甲冑(かっちゅう)は持参しておりました」長櫃(ながびつ)の中に多くの武具がありました。
「さすが家貞殿」と同じく忠臣である平盛国(この時は47歳)が喜んで言いました。家貞が先代・忠盛に体を張って守った様に盛国も思っていたのです。(盛国は後年壇ノ浦の平氏滅亡まで見届け、護送された鎌倉で絶食して亡くなりました)

13日に信西は探し出されて斬首され、14日には義朝の嫡男・頼朝が右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任じられました。頼朝の事を「佐殿(すけどの)」と言うのはここから来ています。
16日の夜半に清盛一行は秘かに京に六波羅邸に戻ってきました。幸運な事に源氏方の武士はいませんでした。そして清盛は、すぐに信頼に対して、異心のない事を誓った名簿(みょうぶ)を提出しました。信頼は満足した表情でした。
義朝は鎌倉の庶長子・義平(19歳:母は三浦義明の娘か橋本の遊女?)に援軍を依頼していました。義平は三浦氏など東国の武士を引き連れて上洛し、そして父にすぐに清盛を討つ様に進言しました。しかし切羽詰まった義朝の進言に対しても信頼は、
「そこまでする事もあるまい。帝も院も我が手中にあるのだから」
27歳の若い信頼は慢心し、安心しきっていました。(続く)


信西を討ってからまもなくして、鎌倉にいた源義朝の長男義平


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