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第22回 中関白(なかのかんぱく)家の盛衰

香子が姉と死別し、親友2人と生き別れした悲しい長徳元(995)年は政界でも激動した年でした。
まず1月13日、香子の再従兄実方が陸奥守に任じられ、人々は前年の行成とのトラブルのせいかと思いました。
1月19日、関白道隆の次女原子が正式に東宮の女御となり、淑景舎(しげいさ)の女御と呼ばれました。道隆の家を中関白というのは父兼家と次の弟道兼も関白でその間という意味と、道長に繋がる中継的な意味と両説あって後年つけられたものです。

そして2月18日早朝より原子が中宮定子の登華殿(とうかでん)を訪れるという中関白家最大の晴れがましい日がありました。実は父道隆は病でしたがそれを圧して妻高階貴子と参内しました。この事は、『枕草紙』第百段に詳しく書かれています。中宮定子が清少納言に「お前は淑景舎を見た事があるの?」と問い、少納言が「後ろ姿だけ少し」と言うと「とても美しい方だから見なさいよ」との会話がありました。やがて定子の兄伊周やその子で三歳の松君(後の悲劇の道雅)が来てはしゃぐ姿が可愛いとあります。
清少納言は道隆に見つかり、道隆は得意の冗談で「みっともない娘たちを見られるのは困るな」と笑います。反対を言うのは京都風ですかね!?
午後2時になって17歳の一条天皇が来ます。興味深いのはそのまま天皇は21歳の中宮と共に御帳台に入ります。宴をやっている横でいくら見えないからと言って堂々と愛し合うのですね。まあ国家の大事ですから。道隆もその前に松君を見ながら「中宮にはどうしてまだ皇子が生まれないのだろう」と言ったりしています。そう言えば卑近な例ですが、私の田舎の淡路では宴会に、コンパニオンさんを多数呼んで、途中から男たちが抱きついたりするのを見て驚きました。横でいちゃいちゃしている側でご婦人が黙々と食事しているのです。後で親戚の女の子に「あれ、嫌じゃなかった?」と聞くと、「あの人たちがいなかったら私達に来るから」とセクハラが横行していた事を知りました。

夕方になって一条天皇は中から出てきて、伊周の異母兄道頼も呼んだりします。清少納言は「この方の方が伊周様より美しいのに世間に悪く言われているのは気の毒だ」なんて書いてあります。
一条天皇はやがて還御し、原子も東宮が呼んでいるというので宴はお開きになります。
やがて天皇から使いが来て、夜にまた来る様にとの事です。中宮定子が「もう今晩は行きません」と言います。昼にあったのだからもう夜は嫌だという事です。すると父の道隆が「それは行けない。早く参上しなさい」と言います。帝王の性生活が赤裸々に書いてありますね。

そんな道隆も病状が深刻となり、4月3日に関白を辞し、10日に43歳で亡くなってしまいます。後を伊周に譲ろうとしたのですが、ここで道兼がしゃしゃり出てきました。「もともと関白は私がなるのが当然」と、花山天皇を騙して出家させ、一条天皇が即位したのは自分の手柄である事を主張したのです。4月27日に道兼は関白に就任しましたが、その年また疫病が大流行していて羅患しており、5月8日に35歳で呆気なく亡くなりました。人々は「七日関白」と評しました。その間、5月2日には『蜻蛉日記』の作者、道綱の母も亡くなっています。(60歳?)
次の関白の候補は二人いました。22歳の内大臣伊周と、その叔父で30歳の権大納言道長です。一条天皇は愛する定子の兄伊周の方が官位も上だし関白にしようとしました。しかしここで道長の姉・東三条院詮子が天皇の寝所にまで押しかけて道長を涙ながらに推薦しました。国母に言われてはどうしようもありません。関白ではなく次の役職の「内覧」にしましたが、内容としては同じです。道長は勝ったのでした。
6月には道長は右大臣となり、官職でも上位となりました。道長と伊周・隆家(弟)の対立は激しく、会議の場でも掴みあわんばかりに罵り合ったといいます。路上でも荒っぽい隆家の家来が道長の随身を殺したりと大変な状況になってきました。

人々は事の推移を見守っていましたが、翌年あっさりと伊周ら二人は失脚します。(続く)


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