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第30回 高子との出奔は事実か否か?

『伊勢物語』第4段では、「正月十日ばかりのほどに、ほかにかくれにけり」とあるように高子を東五条第西の対から、生母乙春のいる枇杷殿にでも移したのでしょうか?
そしてその直後、業平は行動に出ます。
私が信奉する角田文衛先生の説によれば貞観2(860)年正月中旬から下旬にかけて、業平は高子を芥川まで盗み出してしまうのです。乳母の阿倍睦子には最後の別れをするからとか言って連れ出したのでしょうか?

『伊勢物語』はこの出奔と、後で出てくる伊勢の斎宮との密通が事実か否か今でも論争になっています。角田先生は歴史学者なので事実派です。しかし国文系の方は創作であろうとする方の方が多いようです。私は一時仲が良かった国文学者の方に電話で事実か否かを話していた時、あちらは「私は事実であろうがなかろうがどちらでもいいんですよ。文学として扱ってる訳ですから」と少しいらついて答えました。そして「私も教授になって忙しいですからもう電話はご遠慮願います」と宣告されました。あちらは大学の後輩だったんですが絶縁宣言されました。

角田先生とは2回お会いしました。1回目は当時の平安博物館(現・京都文化博物館)の館長で、87歳でしたが颯爽としておられ、アポを事前に秘書の方に取ると快く会って下さりいろいろ歴史談義もしてくれました。その時、先生は「君、現場に行かないといけないよ。何百年たってもその空気というのを感じる事ができるからね」とおっしゃり、私は今でもその様に心がけています。
2回目は先生の著書を参考文献とした『「源氏物語」誕生』が無事出版されたのでお礼をこめて、平成19(2007)年2月、京都下鴨の自宅に伺いました。先生は94歳になっておられ、だいぶ弱っておられました。それでも30分という約束を1時間にも伸ばしてくれました。そしてご自身が作詞されたという「平安の歌」を朗々と歌ってくれました。今だったらすぐ携帯で動画が撮れたのですが。

私が「今、『「伊勢物語」誕生』というのを書いています。出来上がったらまたお届けに来ますね」と言うと、先生は無言で首を横に振られました。もうその時まで生きていないという意味だったのでしょうか?
お別れの時、握手をしましたが、その時、先生はそれまでとは違って鋭い眼光で、
「君、『伊勢物語』はフィクションかと思うかね、ノンフィクションかと思うかね」と睨むように言われました。私は、
「ノンフィクションだと思います」と言うと、先生はにこやかな顔となり、
「そうかね、そうかね」と笑われました。しかしそれが最後でした。
翌2008年の5月、先生は永眠されました。新聞を見て私は「間に合わなかったか」と唇を噛みしめました。
『「伊勢物語」誕生』が出版されたのはその翌年の2009年10月でした。

それから数年後、私は京都に行った時、先生と話をした北山の家を見に行きましたが、すでに取り壊され更地となっていました。
角田先生の思いを胸に、『伊勢物語』その他の古典の研究をこれからも続けていきたいと思います。

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