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第27回 安祥寺(3)完結編

しばらくして私と老人は、元の境内の所に戻ることになりました。境内に戻る暗い下り道で老人は、
「あんたさんはいい時に来なすった!」
と何度も言いました。最初は、昨日が雨で今日が晴れたからかなあと思いましたが、何となく違うようです。
「どうしてですか?」
と私が尋ねると、老人はにこにこしながら、
「毎年何人かが、この寺を見せてくれと言うて来るんじゃが、住職さんが、絶対見せたらいかんいうて、門前払いばっかりじゃったんじゃ。それがな、今日はな・・・住職さんが留守なんじゃよ!」
と言い、笑っていました。そしてまた老人は聞いてきました。
「それでこの寺を見て、あんたさんはどうするつもりなんじゃ?」
私は、「ええ、小説が趣味なんで、何かの形で発表できたらいいんですが・・・」と言うと、老人は今度はにこやかな表情はみるみる変わって、
「書いて下され!書いてこの寺をまた有名にして下され!」
と目に涙を溜め、大粒の涙をこぼしながら土下座せんばかりに私に哀願しました。いつか嗚咽の様に老人は泣いていました。私は驚きながらも、
「ええ、書きますとも。またこの寺が栄えたらいいですね」
そう言って私は慰める様に言いました。そして老夫婦(?)に手を振られて私は安祥寺を去りました。

待っていた妻にあらましを言った後、私達は予定通り、醍醐寺へ向かいました。醍醐寺は全ての面で安祥寺と違っていました。駐車場代、入場料、そして別に拝観料としっかりしています。そしてたくさんの女の人がきれいに掃き清めていました。経営はこうするのだなと私は唖然としながら納得しました。
帰宅してから、私は、小学校卒業の時に亡き父が買ってくれた世界文化社の『平安京』が本棚にある事を思い出し、見て見ました。すると安祥寺がきれいに載っていました。昭和43年当時はきちんと拝観されていたのでしょうか?
また後年、梅原猛さんの『京都発見(六)』(新潮社)の中で安祥寺が語られていました。梅原さんと住職は京都大学の先輩後輩だそうで、荒れ果てた境内の写真が載っていて、梅原さんは寺の荒廃を嘆いておりました。
            (以上、拙著『伊勢物語誕生』序段に所収)
安祥寺を訪ねてから20年以上が経ちました。私は約束通り、伊勢物語の本を出しました。(売れてないし、あまり知られていませんが笑)
しかしだいたいお礼で本を贈ったりしてるのですが、これを送ると留守中、勝手に入れたという事で怒られるかなとためらい贈っていません。あの老夫婦は健在でしょうか?

ただ令和に入って、年に数日だけでも参観ができるようになったと知り、嬉しく思っています。安祥寺が「伊勢物語ゆかりの寺」として賑わうことを祈ってます!
※追伸 この記事を書いてやはり遅まきながら、安祥寺さんにお礼に拙著を贈ることにしました!


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