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第16回 祖母の昔話

母を幼い時に亡くした紫式部は、一つ上の姉と三つ下の弟と共に父方の堤邸に引き取られたようです。平安時代は母方で育つのが普通でしたが。
若い為時(28歳?)は他に通う女ができてそこへ夜は泊っています。(異母弟、異母妹もできました。異母妹の存在が浮舟のモデル?)
そこで為時の祖母が式部らを薫育したものと思われます。

この為時の祖母の出自は高く右大臣定方のたくさんいる(15人とも)、末の方の姫でした。定方の姉は宇多天皇の女御となって醍醐天皇を産んでいるので、この祖母は醍醐天皇の従妹になります。
当然、話は醍醐天皇の事になり、「いつもにこにこしておられる方だったという。上の者が恐い顔をしていたら下の者が意見を言えぬじゃろう」とか、定方は明るく洒落ていて、頭中将の雰囲気を彷彿とさせます。(百人一首「名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがな・・「さね」は「さ、寝よう」を掛けたものとも)
また祖母は、昔、兄が葵祭りで喧嘩に巻き込まれ大怪我をした話や、宇多天皇の妃ともなっていた歌人の伊勢が義理の息子である敦慶親王から愛され、女児(同じく歌人の中務)を産んだ話もしました。

父方の曽祖父・中納言兼輔も政治家であり、学者・歌人でもあった人である事を祖母から知りました。(祖母にとっては舅)。また経済的に恵まれない歌人(紀貫之、凡河内躬恒など)を邸に呼んで援助もしていた様です。兼輔の「人の親の心はやみにあらねども子を思ふ道にまどひぬるかなー子供の事になると道に迷ったようにどうしていいか分からず混乱してしまいますよ」の歌は、最近『源氏物語』を読み直していると何度も出てきます。(百人一首では「みかの原わきて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむー泉といつ見、を掛けて、真面目人間でも掛詞をやるギャップが面白いですね?)

『源氏物語』のエピソードはこの祖母から聞いた話をベースにしているかも知れません。(続く)

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