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第99回 「宇治十帖の人々」(3)横川の僧都(上)

※先に連絡を。別の所でも告知しましたが、昨夕、電子書籍『原爆誕生と戦後』を発行しました。原子爆弾がどの様に発明され、どうして日本に投下されたのか、また真珠湾攻撃はなぜされたのかを、推理し、仮説を述べています。時代のジャンルは違いますが、歴史の真実を追求するというスタンスは同じですので、伊勢・源氏同様、可愛がって下さい!2月5日17時まで無料キャンペーンですので、とりあえずダウンロードして頂いてゆっくり読んでみて下さい!!

さて、『往生要集』の著者である、恵心僧都・源信は1017年6月10日、76歳で亡くなっています。ちょうど5月に三条上皇が崩御され、8月に敦明親王が皇太子を辞退するという頃です。香子が彰子の所に再び出仕したのが、1018年12月ですから、皆の記憶に新しい源信を横川の僧都として物語に登場させようと思ったのではないでしょうか。「宇治十帖」の執筆時期考察にも重大な出来事です。
だいたい亡くなってからの方が書きやすいので。(冷泉天皇だけは在世中から実名を使っています)

源信は7歳の時に父を亡くし、9歳で母の希望で延暦寺に預けられました。
15歳の時に、時の村上天皇の前で講師となり、褒美に織物などを賜りました。源信は嬉しくて、大和に住まう母に、品物を送りました。
すると母から「為政者に認められたくらいで有頂天となり、名誉や財宝を与えられた事を喜ぶとは何事か・・・すべての人に解決の道を伝える、真の僧侶になってくれる事が母の唯一の願いです」
という内容の手紙と、品物がそっくり送りかえされてきました。そして母がいいというまで叡山を下りて来てはいけないとまで書いてあります。
何か「孟母断機」の様な母ですね。

それから40歳を過ぎた頃、源信は阿弥陀仏の本願を果たし、久々に大和に帰ろうとします。すると途中で母からの手紙を預かったという人と出会います。母は病に臥し、会いたいというのです。源信が帰ると母は驚いて、「今朝手紙を出した所なのに。今生では会えないと思ってました」と言います。
母親はずっと毎日、源信が立派な仏法者になる事を祈っていたのです。
やがて70歳を超えていた母は亡くなりました。臨終に間に合えて良かったですね。

「宇治十帖」では横川の僧都の老いた母は、まだ生きている体(てい)になっています。
源信には姉妹があり、妹の一人「安養尼」が物語の「小野の妹尼」として登場しています。(続く)

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