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第114回 湊山温泉

仁安3(1168)年2月に出家した清盛(51歳)は政治を嫡男重盛(31歳)に任せ、自らは福原(現在の神戸市)に退きました。しかし実権は握ったままでした。
福原は清盛が大のお気に入りの場所でした。京と違い、温和な気候で、海を眼前にしているせいか、夏もそう暑くなく冬も寒くはありません。
難を言えば平地が少ない事ですが、坂を登って、湊川の温泉の近くに清盛は「雪見の御所」という大きな山荘を造りました。
温泉に浸かっている時が、清盛の至福の時でした。
 ※その「湊山温泉は現在もあり、私も行った事があります。神戸駅からずっと北に行った所。清盛の気分が味わえますよ!?」

異母弟頼盛などの兄弟たちも福原に山荘を多く造りました。
その年の6月、8歳の高倉天皇の名で、生母滋子の父である亡き時信に正一位左大臣、亡き母祐子に正一位が贈られました。滋子は涙して喜びました。

更に10月10日、西行は賀茂神社に詣でて、その足で四国へと旅立ちました。よく話をしていた悲劇の帝、崇徳上皇(その頃は讃岐の院と呼ばれていました)の墓に詣でるためです。西行は崇徳上皇の母、美貌だった待賢門院璋子に道ならぬ恋をし、出家したのだとも言われています。(続く)


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