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【コラム】医学論文を読むことは意識高い系?-非合理的な賢者を語ろう-

 今日は、X(旧Twitter)でポストされた投稿をみて、とても悲しい気持ちになったので、少し文章を書きたいと思います。あえて引用することは避けますが、「登録販売者が(医学)論文を読むなんて意識高い系」と言った内容でした。

 医学論文よりも医薬品の添付文書の方が大事であるとか、重要視する優先順位の問題であるとか、そういう議論は僕からすると前提条件です。いわば、「本を読むより法律を守ることが大事」と主張されているようなもので、そこに大切な議論の余地があるようには思えません。

 繰り返しますが、登録販売者や保険調剤に従事する薬剤師が添付文書の内容を遵守することは前提条件です。ただし、前提条件の達成に必要なスキルはコモディティ化します。つまり、添付文書の内容をだけを学んでいても、登録販売者として仕事をするうえで、独自のアイデンティティーや競争優位性がなくなるということです。

 医学論文を読むことは決して無駄ではないし、意識高い系でもありません。(法的な根拠の話を度外視すれば)医学論文は添付文書と同レベルのツールです。いくら添付文書が大事だと思っている登録販売者でも、24時間にわたって添付文書を読んでいる人はいないと思います。どれほど忙しくても、1日の中で15分くらいは余裕があるでしょう。この15分で論文を読むかどうか……そういう議論であって、優先順位の問題では無かったりします

 とはいえ、一見すると非合理的にさえも思える「医学論文を読むこと」なのですが、この非合理性が極めて大きな価値を生み出す可能性があります。この記事では、「意識高い系?」という指摘に対する反論として、「非合理的な賢者」についてのお話しをしたいと思います。

取り組みの合理性と取り組み成果の4象限

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