ネミアナの侵襲 2 (水没世界)

 わたしたち、外に出られるのよ、と何一つ疑わない笑顔を浮かべるみつきに私は胸が潰されるような思いになった。
 ゴウンゴウンと換気ファンの回る暗く堅牢なこの共同住居の中で、みつきは孤児のようなものだった。みつきがまだ7歳になるかならないかの時、彼女の母親は病魔に侵されて死んだ。ピリカ共同住居は死ぬのに向いていない。なぜなら遺体の保管場所も埋葬施設も設計されていないからだ。私たちは滅多なことがない限り気温五十度を超えワクチンも抗体も持たないウイルスの跋扈するシェルターの外へ出ることはない。人が死んだときもそれは例外ではなく、「死者のために生者が危険にさらされることは許されない」とする長老達の掟によって、遺体は一般廃棄物と同工程で処理される。すなわち、水葬。ただシェルターには、シェルター内部に浸水しないよう二重扉になった廃棄口が一つしかない。だからみつきの母親は、幼いみつきの目の前で、いつもゴミを捨てているのと同じ巨大な廃棄口から、水中に押し出されていった。
 それ以来みつきはよく窓の外を眺めるようになった。他の子たちも外の世界を見ることを楽しみとしたが、みつきの執着は尋常じゃなかった。一体何度、窓のある大人たちの部屋へ勝手に忍び入って怒られていただろう。シェルターの他の子ども達も窓目当てで大人たちの部屋へ侵入したけれど、それは、幼い子に特有なように自分の仲良し数人と組んでの犯行でみつきのような単独犯ではなかった。

 「おりゃ!シーラカンスこうげきだ!」
 「うおおお!シュモクザメで防御、かみつこうげき体当たりあたっくスペシャルでおうせんする!」
 「ざんねん、はずれ~。おなかにあたっく!」
 「うおお、やられ」
 「ドン!そこへサーベルタイガーが乱入!よわきをたすけつよきをくじくタイガーマンのさんじょう!」
 「おい邪魔するなよ、いまいっきうちのいいところだったのに」
 一昨日と変わらない生物の組み合わせで同じグループの数人とのみ戦いごっこを続ける男の子達。
 「じゃあ~、わたしがおかあさんだから、ぬんちゃんはぺっとね!」
 「なんでわたしがぺっとなの!わたしがおかあさんやりたい」
 「じゃあわたしおとうさん!ぬんはぺっとにさんせい~」
 「やだ!わたしおかあさん!」
 「ぬん、わがまま」
 「どっちが!ぬんきのうもぺっとだったしおとといもぺっとだった!」
 「だからきょうもぺっと」
 「ひ、ひどいい、、う、うううえええええんん」
 役割分担の段階から毎日同じ展開で進む女の子達のかぞくごっこ遊び。
 閉鎖的な。私は閉鎖的なその空間に馴染めなくて、2歳下のみつきが窓のない子ども部屋の中でさえ壁の向こう、水のある方を見つめて膝を抱えている様子をよくぼんやりと眺めていた。男の子達が薄汚れたぬいぐるみの水中怪獣の生き生きとしたバトルを、女の子達がきらめく熱帯魚たちの群れを成して泳ぎゆく様子を窓の外に夢想する中で、みつきは水中にひとり何を見ていたのだろう。
 お母さんを亡くしてから暫くの間みつきはお父さんと一緒に過ごした。みつきのお父さんは控えめに言ってもあまり非暴力的な人ではなく、大人同士の関係でさえも時折問題を起こすようなところがあった。ある日みつき自身が子ども部屋で暴力沙汰を起こしたことで、みつきはお父さんの住む家族棟から成年棟の後期成年フロアに移され今に至る。後期成年フロアはここの全ての決定権を実質的に握っていると言われる通称「長老」も住まう、ピリカ共同住居の中で最も落ち着いた空間だ。後期成年──その名の通り、大人の中でも円環を古代から今まで生き続けている長い人たち──と、私やみつきを含む一部の子どもたちがそれぞれ様々な事情でここへ居室を構えている。

 「それ、誰に言われたの」
 「父さん」
 それでみつきは益々訝しむ。外へ出られるなんて重大事項、ピリカの全体会議で説明されるか、せめて関係者に直接ピリカの統括本部から連絡されないとおかしいのだ。それがどうして、あのみつきのお父さんから聞くなんてことになり得るのだろう。
 「お父さんから? みつき、それ本当なの? 他になんて言っていたの?」
 「疑うの?」
 秘密の大ニュースを他の誰にも漏らさず、真っ先に大好きなさなぎのところへ持ってきたのに期待通りの反応を返してくれない、とみつきは大層な不満顔だ。あまつさえそれを疑うなんてひどい! 私はこんなに喜んでいるのに! と太字で顔に書いてある。
 さなぎは、みつきの顔に書いていない部分も想像して、あ、ちょっとまずったな〜と舌を噛んだ。みつきは父親を少しでも悪く取られることをひどく嫌う。部屋にこもり必要最小限以上の会話を嫌う夕凪さなぎと誰にでも軽率に抱きついて交流を図るみつきでは全く正反対のようだけれど、図太そうなくせに妙に繊細で傷つきやすかったり、変に他人に対して諦めているようなところが実は酷く共通していた。誰とも付き合いを持たないのと誰とでも親密なのは全く一緒だ。あらゆる相手が平等にどうでもよくて特別な存在がいない。シェルターの大多数の方を普通だと呼ぶならば、普通の住人にはみんなちゃんと特別の人がいるのだ。誰もを拒んだり誰もを受け入れたりしない──90人弱の住人の中から、家族、友人、恋人など、それぞれの名称に当てはまる「決めた」相手が、普通は居る。
 その存在の空白が、二人をつなぐ唯一の絆かもしれなかった。夕凪さなぎはやはりみつきをも拒むし、一条みつきも他の人に対するのと平等にさなぎにも抱きつく。根っこのコミュニケーションがあまりに違うからうまく行くはずがないのだ。しかし、お互いに空白を有しているという共通点をどこか察知しているからこそ、本当には嫌われないだろうという安心感が基盤のように存在した。
 一見正反対な上に普通の関係性が築けない二人がどうにか緩やかに関係性を保っているのは、「普通」の関係性に欠かせない相手の特別性を、「特別な相手がいない」」という空白が逆説的に補ってくれているからだ。
 だからさなぎは、みつきが父親を特別視することに抵抗を覚える。特別なのは私だけでいい、と少し思っているのかもしれないし、あの父親を嫌いきれないみつきに自身を見ているようで苛つくのかもしれなかった。嫌がるのをわかっていて父親を疑うようなニュアンスがつい口を出たことに、しかしさなぎは発生した瞬間にすでにもう自己嫌悪に陥る。
 戸口に立ったままだったから、さなぎはみつきを中に招き入れて開けっ放しだったドアを閉めた。正面からみつきをぎゅっと抱きしめると、太鼓のようにドアをノックし続けていた時の騒々しい明るさと打って変わって壊れそうな表情で黙り込む。その柔らかい身体に食い込むくらい強く腕を回すと、みつきは小さく「苦しい」と呻いた。
 「ん」
 戯れも済んだことだし今度こそ真剣に話をしようとさなぎは椅子に、みつきはふかふかのベッドに腰掛けた。

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