たかが6000km

革命的巨大堅牢建築物であるところの本学72号館を渦巻港に寄せる試みは失敗した。

革命的なのは、1つ目、新しい大学制度のもと初めて建てられた宇宙技術開発専門学部研究棟だから。そして2つ目、革命的に最寄りの港から遠いから。

「なあケンジ、4年間押し続けたけど何も変わらなかったな」
「ああ」

言い出しっぺのケンジの表情は、しかし清々しい。

「貴重な大学生活の実にみのりあるべき放課後をわれわれは巨大な鉄の塊を押すだけで過ごしたわけだが」
「後悔してるのか? 乗ったのは君だぞ」
「こんなバカなこと本気でやるわけないだろ」「でも君は4年間欠かさずここに来た」

そう言ってケンジは体育館裏のような、中学や高校ならば甘酸っぱいエピソードの1つでも付随しそうな土とコンクリだけの伽藍とした空間を見渡した。そして神妙に口を開く。

「・・・・・・なんで来たの?」
「お前が言うなっ!」

壁に背中をもたれさせるのも疲れてずるずると巨大建築物の根元に座り込む。遠い夕焼け。

「なあ、もうすぐ月が出るな」
「なんでケンジなんかと話して大学生活終わっちゃったんだろうな」
「ココロ、月から地球までの距離は何キロ?」
「恥ずかしいからその名前で呼ぶのやめろって言ってんじゃん、約38万4400キロ」
地面の適当な草をちぎって放り投げる。
「すげえじゃん、お前ちゃんと勉強してたんだな」
「これぐらい技研の学生なら当たり前だろ! 馬鹿にするな」
「いいねえその元気」

ケンジは唐突に立ち上がった。夕空に向けて手を広げ、その姿は煌々たる夕焼けを背景に黒く影になってカラスのようにも見えた。そして宣言する。

「これまで俺の唯一の学友だったお前にさえ隠してたけど、俺はフォボスが好きなんだ! いつか消えてしまうフォボス。いつか砕けてしまうフォボス。しかしそれには驚くべき時間がかかる、俺が生きている間には見られないだろう、なんてったって3000万年だからな!」

この学科にフォボスちゃんなんていたっけ、思い当たらないので教授か、よもや職員か?売れない地下アイドルの可能性もあるなと脳内情報を捜索していたところで、ああやっと理解した。こいつは火星の第二衛星であるところのあのフォボスが好きだと言っているのだ。

「俺、お前の星的嗜好にぜんぜん興味ないんだが、それそんな重要なことなのか」

夕焼けに向かってあくびが出て目がにじみ、ケンジがかすんで見える。

「関係大有りさ!」

そして、こちらの反応など気にせずしゃべり続けた。

「あれだけ近くに見える月でさえその距離38万キロ以上。それがもし6000キロの位置にあったらどうだ、空は月で覆いつくされてしまうだろう。月に手が届くと本気で錯覚するかもしれない。その位置にある惑星フォボスを火星は全力で引き寄せている。にもかかわらず、フォボスが火星に衝突するのにかかる予定の年月はなんと3000万年超。人類有史わずか13000年弱と比べればひっくり返りそうなもんだ。なのに俺たちの寿命は、伸ばしに伸ばしても400年くらいしかないんだぜ」

「それでお前は何が言いたいの?」

このとき、自分と貴重な大学生活4年間を共にした愛すべき子供のような男はかつて決して見せたことのない最高の笑顔をした。

「ぼくらがくそちっぽけで何もできなくても気にするなってことさ!!!」

それは、400年の長すぎる人生に目が眩み足元をふらつかせていた僕にとってこのうえない、極上の卒業式の祝辞になった。

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