ダンスフロアで葬式を挙げたい

クラブハウスのライブ会場で彼が思い浮かべたのは葬式だった。
というのも、直近死んだ家族の葬いがあまりにも華やかだったからだ。

葬儀といったら誰もが全身を黒づくめに染め、会場も雰囲気も全てモノクロの世界を想像していた。
しかし実際のところ、故人の遺影の前には白、黄、橙、紫の花々が咲き乱れ、遺影の周囲も棺の周りも仏を祀る金の装飾で豪奢に飾られていた。
確かに参列者は黒い喪服で全身を固めているものの、高齢の婦人や男性が身につける黒はむしろ美しさを引き立て、華やいで見える。喪主の黒真珠はその手入れされた皺の多い肌によく似合っていた。
経を唱える寺の住職はこれまた価値の高そうな袈裟を身につけ、朱色の筆で宙に円を描いた。
ありとあらゆるものが葬式のために設えられ、まるで結婚式場のようだとさえ思った。
ブーケトスの代わりに仏壇を飾っていた花々を棺に入れる。全てが予め決められた進行に則って進み、最後に親族一同で寿司と酒をやり、終わった。

クラブの地下フロアは鼓膜を劈くような勢いで響く低音専用のスピーカーと、真っ暗な闇に支配されていた。
隣人の声さえ聞こえない。隣人の顔さえ見えない。そこにあるのはただ、音楽とムービングライトの控えめな光だけだった。

ここでかかる音楽は全て原始的だった。
メロディアスなバラードや歌のようなものはない。
ただフロアの熱に身を任せ、何もかも忘れられるように体を揺らすためだけの音楽。
原始の人間が踊るために用いていたようなビートと単純な音の高低だけの曲が何時間でもただひたすらに流れ続けた。
笛の代わりに電子音が鳴り響き、太鼓の代わりにbass drumが心臓を揺さぶった。
比喩でなく、本当に音で床も壁も、スピーカーの本体も人間の内臓も、全てが暴力的に揺らされているのだった。

暗闇でその全てに身を任せてしまうと時間が飛んだ。しばらく爪先と身体でビートを取っていたら、気付けば勝手に身体が動き出しているのだった。
ビートが重低音の時は重く、深く。ビートが泡沫のように弾けて消える軽快なステップの時は胸の中でポップコーンが弾け血管で炭酸が踊っているような気分で。
フロアの最前列でそんな風にくるくると気分を変えて手や足を自由自在に伸ばして踊り狂う人々の群れに、いつの間にか、フロアの後ろから押し出される形で加わっていた。

髪の長い女の手が触れた。
ショートの猫のような少女が右へ、左へ柔らかく跳ね続けた。
細いが筋骨隆々で背が高く帽子を被った男がハンズアップして音楽にノった。ブラックミュージックの調子を感じさせた。
誰もが個を忘れて、それでもそれぞれ違う形でそこに在った。
個人的なことの全てが流れて溶けて消えていくようだった。
個人的なことが消えても個は消えない、と彼は感じた。
そこに在るのはダンスでもビートでも音楽でも狂気的な宴でもなかった。
そこに在るのは、熱とフロアの白煙とともに宙空に消えていく現世の苦しみの昇華だった。

だからだろうか、めちゃくちゃに踊り狂う人々の満たすフロアが葬式のように感じたのは。

実際、明け方5時頃ふらふらになって会場を出た彼は、コンクリートで打ちっ放しのクラブの建物から、白み始めた渋谷の鮮やかな空に向かって巨大なヘビがうねうねと飛翔していくのを見た。

「ここにあの猫のような少女がいたら何を見るのだろう」

私は何も見ない、と返答が聞こえた気がした。

唐突に、渋谷の無機質なビル群の中に彼は1人だった。


クラブの一階は少し明るく、スピーカーも少なく話しやすいフロアだった。そこで親睦を深め合う人々がいる一方で彼は1人だった。
話しかけることもできた。しかし彼はそれを選択しなかったのだ。

彼はこれまでもずっとそうして生きてきたのだった。他者と交流するチャンスがある時は自ら進んで避けた。茶目っ気を出して関わってみても途中で関係を絶ってしまうのが常だった。そんなことを繰り返すうち、何も始めないことを彼は選んだ。
何も始めなければ何も終わらなかった。
いつもぼんやりと、ひとりの核から世界を見つめていれば良かった。
それは居心地がよく、十分に酸素の供給される狭い狭い無菌室だった。
出ることの許されないこと以外は完璧な空間だった。
どんなに外に魅力的なコンテンツが存在しても、彼は無菌室で生きると決めたからそこから逃れられないのだった。
彼はそれを不幸になんて思っていなかった。

しかし、彼の日常と懸け離れた異空間と猫のような少女と朝ぼらけの中を昇天するヘビが彼をどこか変えてしまったのかもしれなかった。
もしくは、もっと単純に彼が無菌室に飽き飽きしていて、これは卵殻を破るきっかけに過ぎなかったのかもしれない。

それでも彼は、このとき始めて「執着」という感情を学んだ。

来週もまた同じクラブハウスに行こうと思うくらいには。

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